2013年12月31日火曜日

                                Copyright ©2012RioYamada


                  山田リオ
今朝
昨日の朝でも
去年の朝でもなく
過ぎ去った朝でも
いつかやって来るはずの朝でもない
それはいまここにある
そしてすぐにどこかへ行ってしまう
この朝                

2013年12月29日日曜日

おせち 壱

読者の皆様、この日付、29日になっていますが、日本時間では30日で間違いありません。このブログを立ち上げたときに、海外で設定したのでこうなりました。いずれ座り下げたいと思います。

今日は30日なので、お煮〆めの材料を買いに町へ出かけた。
もちろん一人。なに、食材の買出しは、一人のほうが集中できるし、買い忘れもない。

まずは、気持ちを落ち着かせるために、日高屋へ。
緑茶ハイ260円、三点盛り260円、それに焼き餃子200円を注文する。
三点盛りは、焼き鳥、キムチ、中華筍(メンマ)の盛り合わせだ。
その三点盛りと餃子を肴に、緑茶と焼酎をジョッキの中で氷と共に混ぜたものを、内田百鬼園の阿房列車を読みながら、ゆるゆると呑む。 
ちなみに、阿房列車で一番楽しめるのは、ワトソン役を務めた平山三郎氏の「年代記」の部分だ。

お姉さんに、カウンターのとなりの席の旦那が訊いている。
「ここって、大晦日はやってるの?」
「三十一日も、お正月も、24時間営業してます。」という。
実にありがたいことだ。

すこし気持ちが落ちついたので、例によって、近くの喫茶店「ピアフ」(仮名)に移動する。まず、おきまりのブレンド・コーヒー300円を注文する。注文してから、慎重に考える。
なにを考えているのかというと、ブレンド・コーヒーだけにするか、あるいは、コーヒーといっしょに、チョコレート・ケーキ180円も注文するかという問題だ。
これは、熟考を要する。考えた上で、コーヒーだけで帰る日もあるが、今日は特別だ。
とにかく特別なのだから、改めて、チョコレート・ケーキ180円も注文し、併せていただくことにする。何故かというと、このケーキがいちばんブレンド・コーヒーに合うのだ。

コーヒーとケーキを十分に堪能してから、計480円を支払って、「ピアフ」(仮名)を出て、買い物客で混みあった通りを、八百屋に向かう。さすがに年末、八百屋の店先には、いい野菜が並んでいる。京人参180円を二本、計360円、美しい色だ。
里芋一袋350円、牛蒡二本170円、蓮根三個250円、絹鞘豌豆150円、板蒟蒻130円、筍水煮600円、以上すべてメイド・イン・ジャパン、純国産だ。

つぎに肉屋に移動する。野菜だけではお煮〆めにならないので、ここで豚肉を買うことにする。気に入った厚味の肉がないので、サーロインの霜降りの入ったのを、おやじさんに切ってもらう。しょうが焼きよりは厚く、とんかつよりは薄く、という注文だ。無事、満足のいく厚味に切ってもらえたので、竹皮に包んでもらう。豚肉1260円也。

さて、お煮〆めには不可欠のシイタケを忘れたわけではない。
しばらく前に、アメ横にタラバガニを買いにいったのだが、その時に干し椎茸も併せて買っておいたのだ。この干し椎茸を水で戻した戻し汁が、お煮〆めの味のファウンデーションとなり、おせち料理の味に、なんとも言えないグラデーションを生み出すのだ。
どうです。わけわからんでしょう?いやらしいでしょう?鼻持ちならないでしょう?
このように、日本語の文章に生煮えの外来語を加えることによって、すべてぶち壊しになるのです。
生煮えの外来語は、注意して使わないと、ろくなことはありませんぜ、旦那。    
                                                                                   Copyright ©2013RioYamada

2013年12月22日日曜日

昼酒 Ⅱ


日高屋さんで焼酎を呑んでいたら
急にコーヒーを飲みたくなったので
近くの喫茶店へ行った
そこは昭和の匂いのする広い店で
壁際の隅のお気に入りの席に座り
お姉さんにコーヒーをたのむ
ブレンド・コーヒー300円、ブラックで

あちこちの店でコーヒー豆を買ってきて
朝、ミルで挽いて淹れて飲むけれど
なぜか自分が淹れる朝のコーヒーは
この300円コーヒーに負けていると思う

このブレンド・コーヒーは言うまでもなく
近所で人気のチェーン店などと
比較するのも失礼なほど美味なのだが
わたしは、酸味、苦味、コーヒー豆の名前
焙煎だかローストだかもよくわからない
ただなんとなくこの古びた店の片隅で飲む
一杯のブレンド・コーヒーが好きなのだ     Copyright ©2013RioYamada

2013年12月14日土曜日

昼酒


#日高屋 で昼食なう。
肉野菜炒め、ライスなし、焼き鳥、緑茶ハイ(ジョッキ)。
これで、計820円であります。
読書しながら、約一時間滞在。
けだるい土曜日の午後であります。

2013年11月3日日曜日

やったね!

名掛丁商店街のみなさま、おめでとうございます!
四郎さん、ありがとうございました。

2013年10月25日金曜日

「皮なしウインナ」というものを食べた。
なんとなくさみしい気持ちになった。

2013年10月1日火曜日

か、傘が・・・


皆様のご無事を祈ります。
                     山田

2013年9月11日水曜日

みなも

                         山田リオ

遠い夏の日
竹箒の細い竹を一本抜いて
テグス、いちばん小さい釣り針、赤虫、バケツ
近くの池から始めて
ずいぶん遠出もした
いつも一人で、バスや電車に乗って
狙うのは、手長エビ、タナゴ、クチボソ
家に帰って松藻の水槽に放すと
どんな熱帯魚よりもきれいだった
暑くなれば、橋の下
夕立がくれば、橋の下
そうやって、いつでも
みなもを見ていた
日暮れまで
ゆれる水面を見ていた
水を見ていれば、安心だった
帰りたくない時間
できれば、ずっとそこにいたかった
いい時間
いい日
いい生活
そう、あれはいい生活だった
模型のエンジン機はすこしだけ欲しかったけど
あれは、はじめから、無理な相談 
それ以外には、なにひとつ
失うものも、欲しいものもなかった
限りなくホームレスに近かった
あの、幸福な少年           Copyright ©2013RioYamada



2013年9月8日日曜日

三月兎のように

March Hare

                      山田リオ  
渥美清さんの言葉、
「カバン一つ持って、チョウチョやトンボのように、いつでも好きなところに行けたら」
だっけ?
あれが、頭から離れない。
何度も何度も頭の中で繰り返す。
夜、眠っている間も、容赦なく。       
渥美さんは、すごいなあ。

ルイス・キャロルの「アリス」のなかの「狂ったティー・パーティー」の場面に出てくる気違い帽子屋でも、眠りネズミでもなく、三月ウサギになった気分。


挿絵の、
まさに、あの眼だ・・ 
挙動不審の三月ウサギがカバン一つ持って
どこかへ出かけて行くんだ
眼の焦点が合わない。
行っちゃってる・・  
自由は
本当の自由は、
三月ウサギだけが手に入れられる物なのか。
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2013年8月27日火曜日

やきとり

                          山田リオ

焼き鳥、と言っても、ここは鶏肉専門店ではありません。
この町では、たぶん唯一の、博多風焼き鳥の店。
つまり、鶏、豚、牛、魚、野菜、すべて焼いてくれる。
ここでは、それをぜんぶひっくるめて、「焼き鳥」と言う。

すわると、とりあえず、キャベツが大皿に山盛りで出てくる。
これは、言うまでもなく、柚子胡椒と、ポン酢でいただきます。
もちろんキャベツは、おかわり自由。
キャベツを食べながら、芋焼酎を飲む。

そこで、あゆむさんが、あの美声で「乾杯~~」と叫ぶので、
こっちも乾杯する。
乾杯しながら、注文書類に第一ラウンドの注文を書き込む。

当然の事ですが、豚バラに始まって、豚バラに終わる。
その間に、鶏つくね、鶏のネギマ、軟骨、タマネギなどを
豚バラ
丁寧に注文書類に書き込んで行きます。

何一つ言わないでも、すわったとたんに、
あゆむさんは、もう、豚バラの焼きに入ります。
備長炭はすでに真っ赤。
あゆむさんは、けっして急ぎません。
じんわりと、ゆっくりと焼きます。
あたたかな焼き色をつけながら、
毒蛇のように、急がない。

あゆむさんが好きなのは、焼きが上手いこともあるけれど、
その人柄ももちろんなんですが、店で一番の男前だということ。
若くはないけど、男前。
すみません、キャベツ、もっとください。

なんて言ってる間に、海老が焼けています。
大ぶりの、殻付きブラックタイガー、これは、焼けても、殻を剥かないで、
そのまま、マヨネーズを付けて食べます。
殻が香ばしいんだからね。
殻を剥いちゃあ、ぶちこわしです。
あ、芋焼酎、ロックでもう一杯ね。

カウンターの中には、やたらに日本語が上手い、白人のイアンさんもいる。
イアンさんが、アメリカ人の注文を取ってる。
ちょっと邪魔してやろう。イアンさん、ちょっとちょっと、
どうでもいいけど、あんた英語うまいねえ。

タマネギが旨い。アスパラを豚バラで巻いたのも、いい。
しいたけもね。ああ、もう第一ラウンド終わりだ。
じゃ追加の第二ラウンドね。
豚足ね、それから、鶏手羽先、牛肉はなにがいいの?ああ、それがいい。
それから、軟骨もう一回たのもう。塩で。
で、豚バラ、4本。

なんて言ってる間に、もう焼きおにぎりの時間です。
焼きおにぎりですが、三角の、あの、角っこのとこが、一番旨いのね。

はい。帰ります。
ごちそうさま。
また来ます。              
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2013年8月21日水曜日

坂正義 2009/04/10


「坂正義」(さかまさよし)             山田リオ

中学生のころ、御徒町の駅で
坂正義と出会った
彼は一冊ずつ手作りした自作の詩集を50円で売っていて
ぼくはそれを買った
メガネをかけた三十代の背の高い立派な大人で
でもどこか貧しそうなようすの坂正義が
中学生に詩集を200円で売った時に
いったいどういう気持ちだったのかは
その時は想像しなかったし
今考えてもわからない

しかし今でもまだ憶えている
ひとつの詩の末尾の部分それは
「盃(さかづき)の、ふせてあるまま
行かねばならず、じっと行く
淋しきかぎりぞ、この道は」
というものだ
詩集を渡してくれた時の坂正義は
背中をしっかりのばし唇をひきしめて
厳粛なあるいは誇り高い表情だった気がする

もしかしたら今はもう
亡くなっているのかもしれない
あの御徒町駅の詩人坂正義は
有名になりたいとなんか
けっして思っていなかっただろう
お金持ちになろうとなんか
夢にも思っていなかっただろう
彼もまたぼくとおなじように
自分の書いた詩をだれかに
読んでもらいたかっただけなのだ

ぼくに背をむけて手に詩集を持って
改札口のほうに一歩一歩ゆっくりと
疲れたような足取りでむかっていったあのやせた背中を
ぼくは今も忘れてはいない
彼の詩が良いのか悪いのか
わからない
しかしあの時代にそして今の時代にも
ただ一人自分が信頼できる人間は
坂正義なのかもしれないと
今になってそう思う

                                  Copyright ©2009RioYamada

2013年7月23日火曜日

Mutual


"The feeling is mutual." という言い方がある。

「お互いに、そういう気持ちだよ」というような意味。
たとえば、だれかに告白されたとき、こう答える。
ぼくも、あなたのこと好きだったんだ。

「あのひと、いいなあ」そう思っている相手もまた、
自分のことを同じように思っていた、というわけだ。

そういう人といっしょに過ごす時間のために、
人は生きている。

すくなくとも、ぼくはそう。

だれかに、「おまえなんか、きらいだ。」そう言われたら、
笑って、こう返すこともできる。"The feeling is mutual."

"Mutual admiration society" という言い方もある。

直訳は、「相互あこがれ協会」?「相互敬愛協会」?ですか?
実際には、グループでも、仲間でもない、二人の人間のつながりを表す言葉だ。
たった二人を「協会」と言うところに、ユーモアがこめられている。  

"Two is company, three is a crowd"

 というイディオムもある。
直訳は、「二人はいっしょ、三人は群衆」。

二人と三人とは、決定的に違う。
三人いれば、それは単なる群衆に過ぎない、というわけだ。
二人と三人。その間には、グランド・キャニオンのような峡谷が横たわる。Copyright ©2013RioYamada

2013年7月21日日曜日

朝臭


朝臭、ではなく浅草にちょいと行ってきました。

まず、煎餅の店、和泉屋の本店が工事中で、
仮店舗のほうで煎餅をたっぷり買い、
そのすぐ隣りの、諸国名産珍味、おつまみなど売ってる、観音通りの熊野屋
これも昔っからの店で、「焼きくさや」の瓶詰めを買いましたさ。

これだと、焼かないで、頂けるん。
くさやが臭いなんていう、無粋な輩に文句を言われることもなく、
ご近所に気づかれることもなく、ひそかに、くさやを食えるという。

一瓶、1700円也。
これは安い買い物ですぜ。
だって、これ一瓶持って出かければ、
パリ、アカバ、バスク、台北、
どこへ行っても、好きなときに、好きな酒といっしょに、
好きなくさやが食えるってもんで。チンしても、また旨いん。

ちなみに、これ、マルヤ商店、梅田勝さんが作っているという、新島名産青ムロアジの焼きくさや瓶詰め、東京都新島村本村二丁目三番18号、電話番号、04992(5)0025 に注文すれば手に入ります。

そのあとで、浅草で一番好きな天麩羅のXに行きました。
いえ、ここは、だれにも教えないん。
ごくごく、小さい店ですから。
客は近所の商店主とか、地元の人ばっかり。
観光バスも外国からの団体もこないん。
だって、店は数人で満員なんで。
で、ネタが終われば、そこで閉店。
どんな天麩羅かって?それも教えない。

で、さっき帰ってきて、くさやを赤ワインでやったんで。
明日は、レモンサワー。あさっては、うーん、考え中。やっぱり白いご飯ですかね。

ところで、さっきの煎餅屋ですがね。
ここの南京豆が好きでね。塩味ぬき、殻から出した、そのまんまのピーナッツ。
甘皮ごと食う、これです。
これがまた、お酒に合うんで、非常に困っております。    やまだ

 落花生食む度に落つ甘皮に人の残せるは何ぞと問ふ    笹井宏之
、                                 

2013年7月3日水曜日

分岐点


2010/06/01 (火)    山田リオ
 

歩いてきた道がここから二つにわかれて
そのどちらかを選んでそっちの道を歩いて行く
そういう二者択一の分岐点がある
 

そこで一つの方向を選んだために
その人の一生がまったく違ってしまうこともある
たとえば気がついたら人を殺してしまったとか
ある人が好きになりその人について行ってしまったとか
何かの加減で住むはずのなかった土地に住んでしまったり
ある日ある時間にある電車にたまたま乗ってしまったことから
とんでもないことになってしまう人生もあって
 

一つのなにげない選択が決定的な破局へと繋がっていた
そういうことは誰の人生にでも起こりうる
でもあえてそんなことは考えないようにして
とりあえず安心して毎日を生きているわけだが
 

今日気がついてしまったことがある
それは自分がいまおそろしく複雑な分岐点に立っていて
高いところからわたしの立つ場所を見下ろせば
分岐点から上下左右のみならずあらゆる方向に伸びる
幸福も不幸も悲惨も滑稽も始発も終点もいりまじった
無数の選択肢が四方八方に伸びている
糾える縄のごときインターチェンジに見えるはずだ
 

選ぼうが選ぶまいが結果として人間は
気がついたらそのなかのたった一つの道を歩くことになる
だから考えても無駄なことはよくわかっているのだが
でもつたない頭で一生懸命考えて希望のありそうな道を選ぼうと
脂汗を流した挙句にまた呆然としてしまうというのもまた
だれにでもあるごく普通のことなのだろう 
 
                            Copyright ©2010RioYamada

猫の一生



                                     山田リオ
家の近所に猫がいる。それは黒っぽい灰色の、つまりドブネズミ色の猫で、  
彼はその色のせいで、ずいぶん損をしてきたと思う。
飼い主は、Aさんという独身男性で、めったに家に帰ってこない。       
夕暮れ、窓の灯りがついていることが、少ない。
 
近所の人たちは、この薄汚い猫がAさんの飼い猫だと了解している。
でも、かわいそうだから、ときどき、こっそり、餌をやる。
冬の夜など、あの猫が、近所の家の窓を覗きこんでいることがある。
別の日には、よその家のドアの前で、じっと待っているのを見る。

プライド、とか言っている場合ではない。
彼が、最初から野良猫だったのなら、
自力で生き抜くすべも、身についていただろう。
しかし、彼は、生涯の大部分を、飼い猫として生きて来た。
その甘い育ち方、人間に頼る生き方は、
彼の身体から抜けるはずもない。
ぼくは、その猫に会えば、挨拶もする。    
ぼくが散歩に行くとき、前になり、あとになって、
ほんのしばらくの間だけ同行してくれることもある。

ある日、この猫が、突然、
「あんたの家に引っ越して来ることに決めました」 
と宣言したのには、当惑した。ドアの前に座り込んで、動かない。
気の毒ではあるが、この子の飼い主は、世話をしないにしろ、Aさんだ。  
ぼくが飼うのは、大いに問題がある。             

仮に彼が本物のノラだったとしても、   
ぼくは、今は、病気のせいで、ペットを飼うことができない。 
そのうえ、この子は、遊んでいて興奮すると、  
人の手に爪を立てるという悪癖がある。    
これは致命的だ。ぼくにとって、感染症は、非常に危険だ。


ドブネズミ色のネコは、塀の上でじっと寝そべっている。
「屈託」という言葉に形と顔を与えると、この猫になる。
明らかに、彼はしあわせではない。         
住む家がない。空腹が、夜の寒さが、彼を苦しめる。
そして、何にも増して、彼を愛してくれる人がいない。


飼い主に見捨てられた、このドブネズミ色の猫。
彼は、甘やかされて育ち、そのまま大人になった。  
ある日、なにかの事情で状況が変わった結果、
冷たい世間に一人放り出された、そういう人間に似ている。
(後記: この猫は2013年の春に亡くなった。)
                                                                       Copyright ©2007RioYamada

  

2013年6月19日水曜日

イチジク


ニューヨークに行っていました。
オマール海老のサラダ
さわやかな季節、風と緑の木々がごちそうでした。

でも、呑んで食べるほうのごちそうも、大切。

フランス人のパン屋さんで、昼食をいただきました。これは、オマール海老のサラダ。
もちろん、パンは好きなだけ食べられます。


イチジクとアスパラガス





これは、別の日の、別な場所でのお昼。
アスパラガスとイチジクです。
バルサミコ酢、オリーヴ油、生ハムなどといっしょに。
生ハムとメロンは、よく、いっしょに食べますが、生ハムとイチジクも、地中海の味、たいへんよろしいです。
もちろん、美味しいパンとワインも忘れずに。


 



 

おまけの写真です。
これは、ケンミンの焼きビーフン。
知ってる人は知ってる。
知らない人は、見つけてください。
キャベツや葱などの野菜を入れて、また肉、ハム、ベーコン、えび、イカ、なども加えれば、さらに美味しい。
これがあれば、ある程度の幸福を維持できます。

でも、ハムとか、値上げするんだってね。一気に10%とか。汗


なお、アマゾンで30個入りを買えば、
一食105円なので、お得です。
(ケンミンさん、アマゾンさんからは、一円ももらってまへん。) 

2013年6月10日月曜日

変な人

(ハラちゃん)
「・・・わたしのように、ちがう世界からやってくる人は、他にもいるんでしょうか?」

(百合子)
「いるんじゃないかな・・。
でも、その人たちは、みんな、ただの「変な人」って思われてしまって、
気づかれてないんだ、きっと。
人はさー、自分の世界を疑わなくなっちゃうんだよ。
自分のいる世界だけが世界だと思ってしまう。
だから、世界の常識とちがうことを言ったり、したりする人を、
「変な人」だと決めつけてしまうんだ。
おかしいよね、そんなの・・
だって、今いるこの世界だって、誰かが描いているマンガの世界かも知れない。
わかんないよ・・・・・」

                  (テレビドラマ「泣くな、ハラちゃん」より)

2013年6月3日月曜日

ジャカランダ



ジャカランダも、もうすぐおしまい。
暑い夏が、そこまで来ています。















焼乳猪をたべました。
広東料理の子豚の丸焼きです。 
一匹丸ごと焼いたのが店先にぶら下がっているのを、切り取って、皿に盛ってくれます。

なんと言っても、パリパリの皮が楽しみ。肉は、あくまでも柔らかい。

これと、芥菜(かいちょい)の炒めたの。

さらに、広東の海老と豚肉がたっぷり詰まったワンタンと極細麺、清らかな塩味スープのワンタンメンの組み合わせが、不動の王者です。

子豚には、北京ダックの甘味噌に似たのをつけながら、食べますw。

2013年5月16日木曜日

ハラちゃん

日本のテレビドラマ、「泣くな、ハラちゃん」がこっちでも流れていて、もう後半に入っていますが。
笑えます。泣けます。で、脚本が、深い。
なのでー。今日はちょっとそのことを書きます。

脚本は、岡田恵和。
まず画期的なことは、神が出てくること。
しかも、その神は肉体を持って現れる。
今、目に見える、会話できる、さわれる、キスもできる、
そして全能の神です。

で、まあ、もう日本では放映終わっているんで書いてもいいと思いますが、
ナント、神が二人出てくる。
現役の神と、もう一人は、いっぺん引退した神。
なんだか、ベルイマンの某映画作品を思わせますが、
なに、こっちのほうがスゴイです。

生と死、存在と虚無について、つくづく考えさせられました。
ただし、爆笑しながらですが・・
では、このへんで。

PS. 見なかった人は、たぶん、ネットで見られます。 
   また、越前さんのお母さんの役は、ナント!!白石 加代子さんであります。 やまだ

2013年5月5日日曜日

卒業    


mimosa
           山田リオ

痛い
苦しい
辛い
心配でしょうがない

そういうものはすべて
わたしが生きている証拠

そういうものが
きれいになくなるとき
わたしは生きることを卒業します
       Copyright ©2013RioYamada

2013年4月12日金曜日

生々流転

■2007/12/28 (金)

                      山田リオ
テレビで福岡伸一さんの対談を聞いていて
それは、きちんと書き取っていなかったのだが
聞きながら、「生々流転」という言葉を考えていた
福岡さんの話では、人間の肉体というものは
ガスのようなもので、常に入れ替わっているという
肉も骨も内臓も脳も血管も
身体のすべての細胞そのものも、内容も、すべてが
今日食べた物の分子と絶えず入れ替わっていて
それはたぶん、川や雲や風や海がそうであるように
私たちの肉体もまた、絶えず流れているのだという
だから、一年たてば、一人の人の身体は
一年前の、あの身体とは全く別の分子や粒子で出来ていて
そしてなおも、絶えず新しい分子が流れこみ、受け入れ
古い肉体の構成要素を排泄しながら絶えず自身を革新し
排泄されたものは、また別の生命体の、または無生物の
構成要素として入れ替わり、流れていくという
ガスのように流れている粒子の、その一瞬が、たまたま
一人の人の生だ、というのが現代の科学の結論だというのなら
大昔の無知な人が思っていた命とは、生々流転とは
古いけれど、同時に、無知どころか
おそろしく進歩的で、かつ真理だったわけだ

その思いは、わたしをすっかり安心させた
そうか、なるほど
わたしの肉体が生きている間も、そして死んだあとも
わたしを構成するすべての粒子は自然に帰って行っているわけで
わたしがいなくなっても、わたしの身体の分子や粒子は
バクテリア、菌類、ミミズ、昆虫、鳥、樹、草、雨、風、川、海
そういうわたしの好きな自然界のなかまの一部になって
無数の生命や風土、気象や天空へもどって行って
無限にめぐり、循環を繰り返してしてゆくのなら
それはつまり、みんな、なんでも不滅だということだ
生まれ変わる、というのは、そういうことだったのか
それなら、死ぬことも、生まれることも、生きることも
すべてが、陽に光って流れる川のように思えてきて
なんだか、ひとりで
ほほえんでしまう。


Copyright ©2007RioYamada

2013年3月28日木曜日

初めてのジャスミン

2006/12/03 (日) 初めてのジャスミン

”The First Jasmines” by Rabindranath Tagore

「初めてのジャスミン」(詩集「三日月」より)
ラビンドラナート・タゴール(1861~1941、インド)訳:山田リオ

ああ、ジャスミン、このジャスミンの白い花を
初めて、両手いっぱいに抱えたあの日を思い出す
ジャスミン、このジャスミンの白い花

わたしは愛していた
陽光と空と緑の地球を
真夜中の暗闇のむこうからくる
川の水音を聞いていた
秋の夕日は、淋しい荒地の道の曲がり角から
わたしのほうにやってきた
花嫁がヴェールをそっと持ち上げて
恋人を迎えるように
でも私の記憶は、今でも甘く香っている
子供だったわたしが
あのとき、両手いっぱいに抱えていた
あの、初めての白いジャスミンの花

私の人生にも、たくさんの喜びの日々が訪れた
祭りの日には、みんなといっしょに騒ぎ、笑った

雨が降る灰色の朝には
無意味な歌を、いくつも小声で歌った

愛の手が編んでくれた
夕暮れのバクラスの花輪を
わたしは首にかけた

でも私の記憶は、今でも甘く香っている
子供だったわたしが
あのとき、両手いっぱいに抱えていた
あの、初めての白いジャスミンの花

Copyright ©2006RioYamada

2013年3月16日土曜日

霧の朝



© rio yamada
© rio yamada


朝起きたら、霧でした

いつもの山に登っていっても

ずっと霧
© rio yamada













ところが頂上近くまで登ったところで

霧の上に出ました

ここは晴れています

霧は谷を満たしています


2013年3月13日水曜日

八木重吉 ①


窓をあけて雨をみていると
なんにも要らないから
こうしておだやかなきもちでいたいとおもう 

               八木重吉(1898-1927)

2013年3月10日日曜日

速報

これが今朝の写真。尻尾がこんなです・・

永い間、姿をみせなかった、
うちのリス、アマンダ・レモンツリーさんが、
帰ってきました。
猫に食べられたかと心配していましたが、
暖かくなったと思っていたら、
今朝、無事、ご帰還でした。
相変わらず、元気です。

どうして彼女だとわかるかというと、
まず、異常になれなれしい行動。
勝手に家の中まで入ってくる、
身体に登ってくる、
そういうリスは、ほかにいません。

それに、誰かに尻尾を食いちぎられたらしく、
尻尾が短いのです。

今も、網戸をがりがり引っかいて、
アーモンドをくれろ、と要求しています。
                         山田

以前の記事: 詩日記: 毎朝の訪問者

2013年2月24日日曜日

ダウントン・アビー三年目が終わった


 
またしつこく言いますが。
xxxx。
あの人とあの人は、できればxxくらいまではxxxxxx、
と、思うともなく、そう思っていたxxx、xxxxxxxxxx。

そりゃ、現実の世界でも、xxxxとか言うけれど、
xも、 yも、 zも、
xxxxxxxxxxxxx。しかし! 召使のトーマスくん、オブライアン女史なんかは、
xxxxxxxxx、相変わらず暗躍しているじゃないか。
それが現実よ、と言われれば、そうなんだけど。

これを書いているジュリアン・フェロウズの革命的というか、
勇気だか蛮勇だかは、認めるけれど。
まあ、ハリウッド映画だったら、絶対やりませんね、
こういうこと・・・

でもなにしろ、全員が主役で、全員が脇役というダウントンですから、
これからも、たくさんの人たちが、それぞれの物語を紡いでいくのでありましょー。
それはそれ、今は考えたくもない、というのが、見終わった現在の気持ちです。

とりあえず、茫然自失、といいますか。
しかしここは、気をとりなおして、今すぐ出かけて行って、
ジュリアン・フェロウズに面と向かって言いたい。
「ロード・フェロウズ!xxxxxxx,xxxxxxx,xxxx!」

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2013年2月18日月曜日

笹井 宏之






廃品になってはじめて本当の空を映せるのだね、テレビは

初めての草むらで眼を丸くして何かを思い出している猫

時計から兎の駆けてゆくやうな気配がしても誰にも言ふな

六月の雨が両手を伝ひつつわが深層へ雫するのだ

ひとときの出会ひのために購ひし切符をゆるく握りしめたり

なんといふしづかな呼吸なのだろう 蛍の群れにおほはれる川

白砂をひかりのような船がゆき なんてしずかな私だろうか

気のふれたひとの笑顔がこの世界最後の島であるということ

顔をあらふときに気づきぬ吾のなかに無数の銀河散らばることを

さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから

あをぞらの青が失はれてしまふ汝を抱きしめてゐるあひだにも

落花生食む度に落つ甘皮に人の残せるは何ぞと問ふ            

ひとが死ぬニュースばかりの真昼間の私はついにからっぽの舟

おそらくはあなたにふれていたのです 浜昼顔の眠りのなかで

夕立におかされてゆくかなしみのなんてきれいな郵便ポスト

太陽の死をおもふとき我が生は微かな風を纏ふカーテン 

ほんとうにわたしは死ぬのでしょうか、と問えば杉並区をわたる風

あなたとの日々をゆっくりOFFにしてそれきり電池切れのリモコン

祝祭のしずかなおわり ひとはみな脆いうつわであるということ

百年を経てもきちんとひらきますように この永年草詩篇



                                          笹井 宏之(1982-2009