こたえは いつもそこにある
こたえは 言葉じゃなくて
目の前の そこにある 世界そのものにあるんだよ
ほら すぐそこ あなたの目の前に ね
山田リオ
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こんなところに立ち止まって
まわりを見回したり 後ろを振り返ったり
あれこれ くよくよ 思い迷っている場合じゃない
今まで ひとりで やって来たことを もう一度信じて
このまま 同じ道を まっすぐ 歩いて行けばいい
心配することなんか なにもないんだから。
山田リオ
今朝 夜明け前に ずいぶんはっきりとした 夢を見た
目がさめて 思ったのは あれは ここしばらくの間 苦しんでいた
「あのこと」への答えなんだろうな と いうこと
久しぶりに 気持ちの良い 目覚めだった
そうか そういうことなのか と 朝のコーヒーを飲みながら
今 思い返しているところです YR
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人類も 植物も 宇宙の塵さえも
私たちは みんな
目に見えぬ笛吹きが 遥か遠くで吹く
あの神秘的な音楽に合わせ 踊る
アルバート・アインシュタイン (1879~1955) 山田リオ訳
眠りから覚めても此処がうつつだというのは少し待て鷺がゐる
笹井宏之 (1982~2009)
ともかくも家の明かりを全部消す今日のつじつまは合はなくてよし
永井陽子 (1951~2000)
苔は わたしたちや ほかのみんなにとって
大切な 多くの知恵と 答えを 持っている
わたしたちが 苔の声 森の声を 聞こうとしないのは
苔の言葉は 人の言葉とは すこし ちがうから
でも よく聴いて 考えれば 苔は きっと 答えてくれる
On Green Dolphin Street
手拭も柄が悪いと手を拭かれ
焼きたてのさんまに客のくるつらさ
味の素あまり不思議でなめてみる
同業に悪く言われて金が出来
のみの子が親のかたきと爪を見る
古今亭志ん生 (1890~1973)
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この人、好き ヴァハン・クルドイアン RY
萩原朔太郎 (1886~1942)
松林の中を歩いて
あかるい気分の珈琲店をみた。
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。
をとめは恋恋の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほふくを取つて
おむれつ ふらいの類を喰べた。
空には白い雲が浮んで
たいそう閑雅な食慾である
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もうすこし 落ち着いたら もうちょっとだけ 安心になったら
そう思いながら ずいぶんと 時間が過ぎていった
辛抱も いい加減 疲れたなあ と 思いながら
いくらなんでも そろそろ どこか 近場の温泉で 一泊だけ
そう思うのは しかたないでしょうよ うんと 我慢したんだから さ
でもなあ 目の前に あの 豪華な料理が並ぶのを想像すると 心がメゲる
大食い大会じゃないし 普段食べられないような贅沢なものを なんて 思わない
お刺身盛り合わせも 冷めた天ぷらも いらない
動物性脂肪分満載の和牛 も いらない
そうじゃなくて なにか 地元の 山菜とか 野菜の料理を すこし
それと 炊きたてのご飯と お酒 それで ほかには 何もいらない
静かなところで 山や森や川の音だけを聞いて ゆっくり お風呂に入って
時が 目の前を過ぎていくのを じっと 見送っているだけ それで いいんだ
それで いいんだけど なんでかなあ そういう 温泉宿って
見つからないんだよ ね R.Y.
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寂寥へ到る途は
かならずしもくらいものではない
むしろそれは奇妙な
明るさにあふれている
そののち突如として
訪れる言葉を
私たちが知らないだけなのだ
石原吉郎 (1915~1977)
My one and only love
しつこいようですが これ 大好きなのでsaudade サウダージ ですね
さまざまなこと思ひ出す桜かな 芭蕉
私が たっぷり持っているものが あるとすれば
それは よくわからない 不確かなものばかりだ
そういうものなら 私は いっぱい 持っている
確かなことなんか 私には 何ひとつ ない
私にとって それで 十分なのだ
ホルヘ・ルイス・ボルヘス (1899~1986) 訳:山田リオ
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そんなふうに 桜は おわった
いつか ふたたび この目で 桜を 見ることがあるのか
それは 考えない 考えないようにする
だって 明日 自分の命が いや それどころか
世界がどうなるかだって わからないのだから
でも 自殺しようとかは 思わない
だって 今日は 今は 生きているんだから
明日のことを 心配するのは 無意味なこと
今 この時 たしかに 自分は まだ 生きている
そのことを ありがたく思って
笑っていよう そうしよう
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■2002/05/13 (月)) |
Copyright © 2002Rio Yamada |
以前に歌詞を翻訳しました。このブログに掲載してあります。
「雨」という題名のタンゴです。
ロベルト・ゴジェネチェの唄、
アニバル・トロイロのバンドネオン。
夜が明けて わたしは まだ 生きている
こんな朝 何を唄ったら いいのか
思えば わたしたちは いつだって
いくつも 空が落ちてくるような そんな世界で
生きたり 出会ったり 愛したり
別れたり 唄ったり 歩いたり
生まれたり 死んだりを
くりかえしてきたのかもしれない
生きているのは すごいことだ
だから今日は 今は 生きているんだから
感謝して せいいっぱい 生きよう
山田リオCopyright ©2022RioYamada
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作詞は ヴィニシウス・ジ・モライス
作曲は アントニオ・カルロス・ジョビン
題名の「思い出すのはもうやめよう」は山田リオの訳です
多くの人は この曲が 最初に書かれたボサノヴァだ と言います
歌手は ナラ・レアン
と ここまで書いて 当然出てくる「才能のことを書いてるお前」 つまりワタシの事だけど 「オマエごときが才能について書くのって どうなの?」 っていう疑問だけど マコトに ごもっともですが ここは 聞こえないふりして 続けます
で 話し言葉の事だけど たとえば 子供が生まれますよね で 新生児は退院して家に来る すると 家では 全員が なぜか 日本語を話している そしてこの子は 0歳からの数年間 家で 日本語を聞きながら育つ つまり 毎日毎日 耳から入って来るのは 日本語というわけ で 数年のうちに 子供は 当然のように 日本語を話しはじめる
もし 赤ん坊が住む家に フランス語が母国語の人と スペイン語が母国語の人がいれば 子供は当然 幼児のうちに フランス語とスペイン語を両方 話すようになる いわゆる バイリングアル というわけ
でね 音楽も 同じ事なの 親か 誰か赤ん坊と一緒に住んでる人が 例えば すごく松任谷由実が好きで 毎日毎日朝から晩まで松任谷由実の歌を聴いていたとすると この子の耳には ユーミンが毎日入って来る そして この子の母国語 じゃなくて 母音楽はユーミンになって それが刷り込まれたというわけ これが 場合によっては ずっと後になって もしかしたら 老人になってから 強烈なボディーブロウのように効いてくる ってこともある
つまり 人生の一番はじめに つまり 0歳から数年間のうちに 何を耳から入れてあげるかで その人の人生は劇的に変わって来るんじゃないか と ぼくは思っています でね これ 小学生になってからでは もう 手遅れなの 脳が柔らかいうちに じゃないと ダメなの
特にね 幼い時に 耳から入れてもらった音楽を とっくに すっかり 忘れていたとしても あれから ながいながい時間が流れて その子が大人になってから いろんなことがあって 病んだ時に あの時の 幼児の時の あの音楽が 遠い遠いところからやって来て この人を 救ってくれる そういうことも あるわけです
もちろん 「あの頃に耳に入れてもらった音楽がどんなものだったのか」 ってことも とても とても 大事
それと同時に 十回二十回程度じゃなく 「毎日 毎日 毎日 ずっと ずっと 繰り返し 耳から入れてあげる」ってのも すごく 大事 しかし 「座りなさい聞きなさい」はゼッタイにダメ 「なんとなく 知らないうちに いつも あの音楽が なんとなく聞こえていて 自然に 耳から入って来ていた」 ってのが一番いいのよ
「練習しなさい! 勉強しなさい!」というのも 最悪の結果を生むよね
でもさ 話しは「才能」から ずいぶんと遠くに来ちゃったね笑 つづく
山田リオ Copyright © 2022Rio Yamada
こないだの ドイツの人の話だけど
さっき ハッと気がついて
そして 思ったんだけどさ
こういう 八方塞がりというか 出口が見えないで
もう 心が ズタボロになりかけてる時
そういう時 自分にとっては やっぱり
心の特効薬は J.S.B なんだよね
それも G.G. が処方してくれたのじゃないと 効き目が弱いんだ
そのことを さっき 改めて体験して 思った
音楽に救われる っていうことが ごく普通に
でも あの薬は 誰にでも効くってわけでもないと思う
たぶん そう R.Y.
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山田リオ
朝起きたら
300年前に生きた あの ドイツの作曲家の音楽を聴く
夕方 ワインを飲みながら
60年前に亡くなった あの 南米の音楽家の曲を聴く
音楽が作り出された その時に だれかが聴いた その音楽と
ながい永い時間がたった今 聴く その音楽は
同じなのか 違うのか
時を経て 人間が生み出したものは 変わるのか
いや そんなこと どうでもいい
今 ここに 生きていて この耳と この心で聴いている
このわたし 一人に それが どう響くのか
他人が呑んだ ワインの味なんか どうでもいい
わたしが呑んで そのときの わたしが
わたしの 鼻と 舌と 喉と 心とが感じること・・
いや もういいよ 黙って呑めよ
おまえなあ しゃべりながらじゃ 味なんか わからないぞ
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