2016年11月30日水曜日

平城山(ならやま)


        北見志保子(1885-1955)

ひと恋ふは かなしきものと 平城山に
もとほり来つつ 堪へがたかりき

いにしへも 夫(つま)にこひつつ 越えしとふ
平城山のみちに 涙おとしぬ

2016年11月21日月曜日

西行

今よりはいとはじ命あればこそ
かかるすまひのあはれをも知れ

あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ
来む世もかくや苦しかるべき

なにごとも変はりのみゆく世の中に 
おなじかげにてすめる月かな

秋はただ今宵一夜の名なりけり 
同じ雲居に月はすめども    *今宵一夜(こよいひとよ)

いつとなく思ひに燃ゆるわが身かな
浅間の煙しめる世もなく

なき人のかたみにたてし寺に入りて
跡ありけりと見て帰りぬる

風になびく富士の煙の空に消えて
ゆくへも知らぬわが思ひかな   *煙(けぶり)

                                       西行法師(1118-1190)

2016年11月7日月曜日

「生々流転」2007 再録

■2007/12/28 (金) 生々流転

「生々流転」      山田リオ
Copyright©2007RioYamada
 

テレビで福岡伸一さんの対談を聞いていて
それは、きちんと書き取っていなかったのだが
聞きながら、「生々流転」という言葉を考えていた
福岡さんの話では、人間の肉体というものは
ガスのようなもので、常に入れ替わっているという
肉も骨も内臓も脳も血管も
身体のすべての細胞そのものも、内容も、すべてが
今日食べた物の分子と絶えず入れ替わっていて
それはたぶん、川や雲や風や海がそうであるように
私たちの肉体もまた、絶えず流れているのだという
だから、一年たてば、一人の人の身体は
一年前の、あの身体とは全く別の分子や粒子で出来ていて
そしてなおも、絶えず新しい分子が流れこみ、受け入れ
古い肉体の構成要素を排泄しながら絶えず自身を革新し
排泄されたものは、また別の生命体の、または無生物の
構成要素として入れ替わり、流れていくという
ガスのように流れている粒子の、その一瞬が、たまたま
一人の人の生だ、というのが現代の科学の結論だというのなら
大昔の無知な人が思っていた命とは、生々流転とは
古いけれど、同時に、無知どころか
おそろしく進歩的で、かつ真理だったわけだ

その思いは、わたしをすっかり安心させた
そうか、そうだったのか
わたしの肉体が生きている間も、そして死んだあとも
わたしを構成するすべての粒子は自然に帰って行っているわけで
わたしがいなくなっても、わたしの身体の分子や粒子は
バクテリア、菌類、ミミズ、昆虫、鳥、樹、草、雨、風、川、海
そういうわたしの好きな自然界のなかまの一部になって
無数の生命や風土、気象や天空へもどって行って
無限にめぐり、循環を繰り返してしてゆくのなら
それはつまり、みんな、なんでも不滅だということだ
生まれ変わる、というのは、そういうことだったのか
それなら、死ぬことも、生まれることも、生きることも
すべてが、陽に光って流れる川のように思えてきて
なんだか、ひとりで
ほほえんでしまう。
Copyright©2007RioYamada