2011年10月21日金曜日

可能性

ヴァルタの樫の木
                  ヴィスワヴァ・シンボルスカ(訳:山田リオ)
わたしは映画のほうが好き
わたしは猫のほうが好き
わたしはヴァルタの樫の木のほうが好き
わたしはドストエフスキーよりも、ディッケンズのほうが好き
わたしは自分が人類を愛するよりも、
自分が人間たちを好きなほうがいい
わたしは糸を通した針がそばにあるのが好き
わたしは緑のほうが好き
わたしはすべてのことを知性のせいにすることを
あえて主張しないほうが好き
わたしは例外のほうが好き
わたしは、まだ始まる前にその場を離れるほうが好き
わたしはお医者さんとなにか違う話をするほうが好き
わたしは古びたイラストレーションのほうが好き
わたしは詩を書かないことを笑われるよりも、
詩を書くことを笑われるほうが好き
わたしはみんなから毎日祝ってもらうよりも、
過ぎ去った愛の記念日のほうが好き
わたしはなにもわたしに約束してくれない
道徳家のほうが好き
だまされやすい善意よりも、
計算された善意のほうが好き
わたしは市民生活の中にある地球のほうが好き
わたしは征服する国々よりも、
征服されてしまう国々が好き
わたしは反対だ、と言えるほうが好き
わたしは整然とした地獄よりも、混沌とした地獄が好き
わたしは新聞の一面よりも、グリム童話のほうが好き
わたしは葉のない花よりも、花のない葉のほうが好き
わたしは尻尾を切っていない犬のほうが好き
わたしは青い目のほうが好き、私の目は黒いから
わたしは引き出しのほうが好き
わたしはここに書かなかったたくさんの物よりも、
まだここに書いていないたくさんの物のほうが好き
わたしは揃えて番号をつけた結び目よりも、
ゆるく結んだ結び目のほうが好き
わたしは正確な時間よりも、昆虫の時間のほうが好き
わたしは木にさわるほうが好き
わたしは「あとどのくらい時間」、とか、「いつ」、とか
聞かないほうが好き
わたしは存在には理由がある、その可能性があると
そう考えるほうが好き。

ヴィスワヴァ・シンボルスカ
(1923年生まれ、ポーランドの女性詩人)

 (All rights reserved 、2011Rio Yamada
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2011年10月12日水曜日

ひとりのとき

        山田リオ   
友人の家を訪問して
そこには二匹の犬がいた
自分は犬やさまざまな
群れで生きる生きものを
苦手だと思う

猫が逝って何年になるだろう
思い出せないほどの月日がたって
いまだに次の猫は来ない
わけはほかにもあるけれど
かれが、最後の猫だった

飼い犬に華麗な服を着せて
着せ替え人形のように扱う
人の気持ちがわからない
それでも犬は、人に従う
いつでも犬は、人を見ている

動物も人も、ひとりのとき
窓の外や、空を見て
じっと、見えないことを思う
そういうとき、ひとりのとき
生き物は、ほんとうに生きている。

(All rights reserved 、2011Rio Yamada
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2011年10月7日金曜日

あまつかぜ

山田リオ
飯を炊く釜が来た
万古焼の硬くて重い釜
これで飯を炊いて
麦藁手の茶碗で食う
みなべの梅干がうんと
昨日よりおいしくなった
紫蘇昆布も茄子の糠漬けも
みんなおいしくなった

一日降った雨がやんで
朝から風が吹いている
この谷の空気が洗われて
遠くの山がはっきり見える
高いところを雲が動いていく
天津風が雲を押していくので
高いところの光が変化していく
地上を雲の影が移動する

(All rights reserved 、2011Rio Yamada
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2011年10月3日月曜日

実生

Copyright © 2011Rio Yamada
                       山田リオ
地に落ちた種子は発芽し
幸運にも実生となって育った
雨の降る日は一日喜び
雪の降る日々を耐え
実生はきれいな若木になった
今日、森の奥では
光が無言のお祝いをする

(註:実生=みしょうCopyright © 2011Rio Yamada


2011年10月1日土曜日

夕日

rio yamada photo
           山田リオ 

私は何をするためにここに来たのか。それを考えるとき、いつも鳥獣蟲魚のことを思う。彼らは、何も言わず、不平不満を言わず、生き、食い、傷つき、病み、そして死んでゆく。

でも、鳥獣蟲魚は、見たところ、実に楽しそうだ。歌い、恋をし、交尾し、子育てし、そして当然のように、無言で死んでゆく。そのために生まれてきたからだ。

一方で、わたしは、 ちゃんと食い、恋もし、貧しいながら生きているのに、
不平不満ばっかり言っているのはなぜだろう。
それは、わたしが鳥獣蟲魚に劣る生き物だからなのか。

わたしが、なぜそんなに不満なのか、と言うと、
それはたぶん、人は育つとき、「みんな」を見て育つからだ。
そして人生に、ある種の期待を持ってしまう。
でもその期待は、多くの場合、満たされることがない。
お金持ちや成功者ほど不平不満が多いことでもわかる。

では、わたしは、ここに、なにをしに来たのか、
と考えるとき、いっそのこと、たとえば、
「わたしは、ここに、夕日を見に来たのだ」
と考えるのが正しいのではないか。
それ以 上のことを人生に願うのは、傲慢というものだ。
ちょっとここに立ち寄った、ただそれだけのこと。
「通りすがりの者です。」そして、すぐにまた、旅立つ。

それは、あっという間のことだ。
人の一生は、スズメが飛んできて、庭の木の枝に止まっている、
ほんの一瞬、あっという間のことだ。
またすぐに飛び去って、もう枝にスズメはいない。
それが人の一 生だ。

みんなが、所有している、と信じている、家も、財産も、
けっして彼らの本当の所有物ではない。
rio yamada photo
我が物ではない我が子とさえ、明日には、別れの時がやってくる。

「あなたは何をするために生まれて来ましたか?あなたの人生の目的は?」

「はい。ちょっと、夕日を見に・・」

(All rights reserved 、2011Rio Yamada
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