赤ワイン
不要不急の 赤ワイン
「他人の顔色をうかがいすぎていないか」
それはともかく
元日は なにはともあれ 赤ワイン by 山田
因みに「他人の顔色・・」云々は お年玉で頂いた
養老先生の新刊「ヒトの壁」のキャッチコピー
元日の朝 ガラス越しの日差しが あたたかい
rio yamada |
赤ワイン
不要不急の 赤ワイン
「他人の顔色をうかがいすぎていないか」
それはともかく
元日は なにはともあれ 赤ワイン by 山田
因みに「他人の顔色・・」云々は お年玉で頂いた
養老先生の新刊「ヒトの壁」のキャッチコピー
元日の朝 ガラス越しの日差しが あたたかい
rio yamada |
Feliz e maravilhoso ano novo para você!
波しろき海の極月来たりけり
これやこの冬三日月の鋭きひかり 鋭き(とき)
久保田万太郎(1889~1963)
今はもう会えない 友人の一人が 言っていた事がある
それは 「大きな幸運に恵まれた人は
一生の間に その幸運に釣り合うだけのprice
対価 を支払うことになる」という
つまり 幸運と 不運は 一生の中で帳尻が合う
というのだ
そう考えてみると なるほど と思うこともある
幸運ばかりの一生 それを願っては いけないのか?
おい R いたら返事してくれ
ぼくが 少年だったころ
これから ぼくが 生きていくだろう 一生について
漠然とした 想像のようなものは うっすら あったと思う
しかし それから 実際に生きて見たら
やって来て そして 過ぎていった 現実の人生は
はるかに ぼくの想像を 超えていた
それは決して ぼくが 想像以上に成功した とかいうことではない
それは ぼくが 生きているあいだに たくさんの ではなく
ほんのわずかだが 思ってもみなかった あり得ないような
すばらしい人たちに なぜか ぼくは 出会ってしまった
そのこと その 幸運 奇跡のことを 言っているのだ
その人たちは ぼくに 地位や肩書きを与えてくれたわけではない
その人たちは ぼくを ただ 愛してくれた
虫や鳥や獣 野生動物を愛するように
無条件で ただ 愛してくれた
今日は そのことを 書いておこうと
ぼくの 感謝の気持ちを 書いておこうと思ったのです
山田リオ
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「おはよう
コーヒーなんか呑んでないで
はやく あそぼうよ」
と言っています
秋が熟れてゆく でも
わたしは このまま
かわらない
いつも なにがあっても
わたしも 蜘蛛も
鳥獣蟲魚も 草も木も みんなみんな
いっしょに このまま いつも いつまでも
かわらない
山田リオ
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吉田健一の「汽車旅の酒」という随筆集の中の「東北本線」という一章に
列車で たまたま隣り合わせた 男との 会話が書かれていて
その男の 話の中で アフリカの ブッシュマンという民族は
土地を 所有する習慣が なかったため
後からやってきた 西洋人に 野生の獣のように 扱われた という
ブッシュマンは 土地を所有することがなく
自然を 荒らしたりすることもなく
自分たちが 自然の一部として 自然を手なずけ
飼い慣らしながら 共に生きているのだという
そういう話を 見ず知らずの男から 聞かされる
その中で 吉田健一は ブッシュマンが住んでいるという
カラハリ砂漠の 夕焼けのことを 書いていて
私は 見たこともない カラハリ砂漠の 夕焼けが
強く 印象に残っている
この本は いつも 目につきやすい場所に 置いてあって
気が向けば ちょっとだけ読んで また そこに戻しておく
つまり 「汽車旅の酒」 の定位置は 本棚ではない
気がつけば 電子書籍の書庫には ずいぶん 「本」が増えた
いくら書籍が増えても 電子書籍は 場所をとらない
海外で出版された本でも あっという間に送信されて 読むことができる
といっても それらの本には 実体がないから 「置き場所」もない
本の表紙に 指先で触れて 紙質を感じたり フォントを 味わったり
本を手に取り その 重みや 厚みを 感じることができない
たしかに 電子書籍に 書かれていることを 読むことはできる
しかし 本棚に並んだ お気に入りの本たちの 背表紙を
順繰りに 眼で愛撫していく そういう 楽しみは ない
読みかけのページに 栞を挟んでおくという よろこびもなく
心に残った部分や 自分が好きな 詩のページに 付箋を貼ることもない
だから 電子書庫をたまに開くとき かすかな虚しさを感じるのは
私だけだろうか 山田リオ
ナタリー・デセイ(フランス)、ソプラノ。
9月24日の日記に 浮揚する夢のことを書いてから
きっちり一ヶ月後
今朝 早朝に 浮揚する夢を見た
子供の頃見て以来だから ずいぶん久しぶりだった
でも 今朝の夢は
ぼくが 大きなバランスボールにしがみついていて
バランスボールは ぼくをぶら下げたまま 昇って行く
この夢 何かを伝えたいのか 何かの象徴なのか
とにかく ぼくは バランスボールにつかまったまま
ふわふわ ふらふら 上に向かって
どんどん 昇っていく
そういう夢だった ヤマダ
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私のルームメイトが
朝のごあいさつです
3枚の写真、みんな同じに見えるかもしれませんが、
口器(クモの口のこと)が違います。よく見てね。
実は 「おはよう」と言っているのです。
やまだ
←「お」と言っています。
口器が閉じているでしょ?
↑ これは、口器が全開です。 「は」と言ったところ。
↓ これは、「よう」と言ったところです。
rio yamada photo |
では、どうぞ、良い日を。
猫の名前は、昔からカタカナで二文字、というのが多いようだ。猫に苗字を与える、ということはほとんど行われていない気がする。しかし、猫には、カタカナの下の名前より、きちんとした苗字をつけることが相応しいように 思われる。夏目漱石の「吾輩」の猫には、名前がなかったようだが、「苦沙弥」、とか、「水島」などという名前をつけても良さそうだ。内田百閒が愛した猫は「ノラ」という名前だったが、これも、やや納得が行かない。百鬼園先生の相棒、「平山」なんていうのもいいし、「甘木」という名字もいい。「甘木、ご飯だよ。」「甘木、仕事中だから邪魔するな。」とか。猫で有名な養老孟司先生が愛した、今は亡き「まる」。この「まる」に苗字を与えるとすれば、奥本大三郎の「奥本」、なんてどうかな。あるいは、南方熊楠の、「南方」は?
あ、これ、本気にしないでね。酔っ払いのたわ言ですからw。
しばしばもわれに虚のときありぬうしろにかならず猫が来てゐる
街はもうポインセチアのころとなり生老病死みな火と思ふ
小島ゆかり (1956~)
サンバです。ボサノヴァではありません。「過ぎて行く」という唄。
これを聞いて、元気を出してください。
僕の中では、これ、サンバの名曲、「サンバの中のサンバ」です。
これを聞けば、リオの人たちがカルナヴァウに一晩中踊れる理由がわかります。
歌詞は非常に長いので、訳さないでおきます。
この歌のだいたいの内容は、サンバの過去、現在、そして未来のこと。「過ぎて行く」のはサンバの楽隊とダンスの行列でもあり、音楽家たちも、人々も、苦しみも悲しみも、時代も、何もかも、すべてが過ぎ去っていく。でも、最後には、ある日、とうとう、あのカルナヴァウが、喜びを連れて、やって来る。
あの時代に、この道を過ぎて行ったサンバは、今も目の前の石畳の上を過ぎて行くけれど、サンバはこれからも、永久に、決して滅びない。そういう唄です。この唄を書いたのも、この動画で歌っているのもチコ・ブアルキです。
もし可能なら、ですが、踊りながら聞いてください。
さびしさはみづがねいろの雲となりながれてゆきぬこの世のほかへ
永井陽子(1951~2000)
アリ・バホーズ (1903~1964, ブラジル)
訳:山田リオ
大通りで 黄色いシャツを着た あいつに出会った
花売りの唄を 歌いながら 花売りの唄を
あいつに 一緒にうちに来ない? と言ったら
あいつは 皮肉な笑みを浮かべて
つむじ風のように消えた
ほんとうに つまらない男
あいつは 食べ過ぎて 太っていたし
物干しで ヒラヒラ 風にゆれていたんだから
しばらくして ラルゴ・ラパのカフェで あいつを見つけた
五杯目のカシャサを飲んでいるところを
冗談じゃない
あいつは 朝の七時に戻ってきた
水曜日の 朝の七時にだ それに 酔っ払って
庭師の唄を歌いながら そう 庭師の唄を
重曹入りの水を飲みながら あいつは私に話しかけた
まったく ろくでもないやつ
ベッドにぶっ倒れて 靴も脱がなかった
そのまま 一週間 いびきをかき続けた
目覚めて あいつは私に 喧嘩をふっかけた
なんてやつ でも いいんだ
それに あいつは 亭主関白
でも そこがおもしろい あいつは最高だよ
だから 何があっても 気にしない
黄色いシャツなんか 燃やしてやる
あんなあいつが 好きだから
冗談じゃない
あいつは 私だけのもの
私の 大好きな 男だから
短夜(みじかよ)のあけゆく水の匂いかな
久保田万太郎 (1889~1963)
日々 戦場を行く
コンビニまで ミルクを買いに行くとき
バスを待っているとき
弾丸が いくつも 耳のそばを飛び過ぎる音が聞こえる
でも まるで 何事もないふりをして
知らん顔で 空を見る 花を見る
そういう 日々
いつ終わるとも知れない
そういう 日々
山田リオ
rio yamada |
rio yamada photo |
出かけたくない気持ちもあったけれど
好きなパンが食べられないと困るので
激しい雨の中遠くのパン屋まで行った
パン屋は静かで欲しかったパンが買えた
帰り道では雨がずいぶんやさしくなった
雨の日は好きだから行ってよかったと思う
R.Y.
rio yamada photo |
いつでも 手で触れられる場所に 置いてある 虹
私だけの 専用の 虹
この貝殻は ヴァイオリンの弓のフロッグ(持ち手)の一部にもなる
音楽を奏でる時にも 虹は必要なのだ
山田
アワビは 死んでしまったあとに こんなきれいな 虹を置いて行く
ぼくは いったい なにを置いて行くんだろう やまだ
rio yamada photo |
だれかを思い出すのは その人の声を思い出すということ
だれかを忘れられないのは その声が忘れられないということ
だれかがなつかしいと思うのは その人の声がなつかしいということ
山田リオCopyright ©2021RioYamada
ホベルト・メネスカウ 山田リオ訳
光の朝 太陽の祭り
そして やわらかな水色の海の上を
小舟は滑って行く
すべてが夏 愛が生まれる
小舟は 海の上を
どこまでも どこまでも 滑って行く
知らないうちに 私たちの唄は海を離れ
そして太陽が 小舟と 光に くちづけする
限りなく青い日々
海を覆う太陽も やがて薄れて
小舟は 滑りつづける
そして 私は ただ 歌いたくて
南の島々 青い 青い 空
そして この小舟も 心も
唄の中を 滑って行く
すべてのやすらぎと あらゆるものを乗せて
夏の静けさ そして
小舟は行く
夕暮れが来る
小舟は行く
夕暮れが・・・
rio yamada |
(前略)
俊徳 (はじめて窓に向き)僕にも見えますよ。
級子 え? あなた・・・見えるの?
俊徳 見えるんですよ、あの真っ赤な空が。
級子 あなた! 見えるんですか? どうして今まで・・・
俊徳 これだけが見えるんです。はっきりと、事こまかに。
級子 まあ・・・
俊徳 あなたは入日だと思っているんでしょう。夕映えだと思っているんでしょう。違いますよ。あれはね、この世のおわりの景色なんです。(立って行って級子の肩に手をかける)いいですか。あれは夕日じゃありません! (後略)
三島由紀夫作 近代能楽集より、「弱法師」抜粋
弱法師(よろぼし)俊徳(としのり)級子(しなこ)
自分が 何を思っているのか
自分が どんな人間なのかを
自分自身は ほとんど知らない
それに気がつくことが 時々ある
今朝 出かけて帰ってきたら ドアの傍に
いつも その辺にいる あの ヤマバトが
じっと だれかを待っていた
そして あの ヤマバトの声で「おかえり」と
ぼくに そう言った ような気がした
ヤマバトは そのまま ぼくを見ているので
しばらく ヤマバトに いろいろと話をしたあと
ヤマバトとは 別れた
そのあと 一日中 ずっと うれしかった
つまり ぼくは 人と会うより 鳥や虫と会う方が うれしいんだ
自分はそういう人なんだ ということに 気が付いた
あの ヤマバトとの時間を思い出すと うれしい気持ちになる
山田リオ
ジャカランダの花の絵を描きました
直径5cmの絵 豆絵
もうすぐ 曇りの五月がきます
あの街では ジャカランダが咲く頃です
今から 五月のことをいうのは どうかと思うけど
ジャカランダを思うと 少しだけ 心が明るくなるので
この絵を 見えるところに 飾ります
RY
rio yamada |
朝の 最初の 一杯の珈琲の出来によって その日の幸福の度合いが左右される 豆を挽いて その都度コーヒーを入れる 豆はブレンドしているが いつも同じ組み合わせではない 豆の焙煎と水分含有量が重要なので そのへんが上手くいって 理想的な一杯が 朝食と一緒に呑めれば その日は 良い日になる
表現生活の方では 最近 やっと一枚 納得できる作品が出来た これを手掛かりにして さらに突き詰めていけたらと思っている でも ネットなどで発表することはしない 何枚か貯まったら どこか 小さな珈琲屋さんなんかで 個展を開くのが夢だ これは 小さな夢だが そこを目指して歩こう 山田リオ
ダンボールのパレット |