2017年5月6日土曜日
2017年4月28日金曜日
あの本
山田リオCopyright©2017RioYamada
ずいぶん昔のことだ。
海外旅行中に、飛行機で日本人の男性と乗り合わせた。
永旅で、自然に、会話が始まった。
その方は当時でもご高齢で、わたしはひどく若かったし、かなりの年齢差があった。
今となっては、何を話し合ったのか、まったく憶えていない。
眠ったり、食事を摂ったり、切れ切れにいろいろと話し合ったのだろう。
あの方がどういう職業だったのかも、わからない。
目的地に着き、別れるときに、その男性に一冊の古い本を手渡された。
かなり厚みのある本で、そのとき、見返しにその方のお名前を書いておいた。
その後、落ち着いてから、あのときにいただいたあの本を最初から最後まで読んだ。
小説などではない、学術的な、また随想のような内容で、哲学的でもあった。
著者は、聞いたこともない人だった。
当時の自分には難解だったと思うが、とにかく通読した。
それから永い間、その本を開くことはなかった。
何度も引っ越しを繰り返して、でもその本は手元に残った。
だいぶ大人になってから、引越しの梱包をしているとき
「あのときの本」を見つけ、開いてみた。
それから、だんだんに読むようになった。
寝る前に、偶然開いたページを、少しだけ読む。
そうやって読んで行き、何度も、繰り返し、繰り返し読むようになった。
なにか惹かれるものがある。心に響くところがある。
読めば、なにか安心する。慰められる。救われることもあるし、叱られることもある。
だからたぶん、深夜にちょっとだけ読む、ということになったのだろう。
今ではすっかりぼろぼろになって、あちこちテープで止めたりして、まだ読んでいる。
今わかることは、この本は、自分にとっての薬で、導きだ、ということだ。
あのとき、この本を下さったS氏は、そうなることを見越しておられたのだろうか。
おそらく、もうとっくに亡くなられただろう、あのS氏とこの本が、自分の人生を変えてくれた。
S氏と、この本の著者への感謝を、できることなら伝えたい。 Copyright©2017RioYamada
それから、だんだんに読むようになった。
寝る前に、偶然開いたページを、少しだけ読む。
そうやって読んで行き、何度も、繰り返し、繰り返し読むようになった。
なにか惹かれるものがある。心に響くところがある。
読めば、なにか安心する。慰められる。救われることもあるし、叱られることもある。
だからたぶん、深夜にちょっとだけ読む、ということになったのだろう。
今ではすっかりぼろぼろになって、あちこちテープで止めたりして、まだ読んでいる。
今わかることは、この本は、自分にとっての薬で、導きだ、ということだ。
あのとき、この本を下さったS氏は、そうなることを見越しておられたのだろうか。
おそらく、もうとっくに亡くなられただろう、あのS氏とこの本が、自分の人生を変えてくれた。
S氏と、この本の著者への感謝を、できることなら伝えたい。 Copyright©2017RioYamada
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本
2017年4月21日金曜日
2017年4月3日月曜日
与謝野晶子 ①
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
舞姫のかりね姿ようつくしき朝京くだる春の川舟
よそほひし京の子すゑて絹のべて絵の具とく夜を春の雨ふる
清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき
いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春
こころみにわかき唇ふれて見れば冷かなるよしら蓮の露
鳥辺野は御親の御墓あるところ清水坂に歌はなかりき
夕ふるはなさけの雨よ旅の君ちか道とはで宿とりたまへ
京はもののつらきところと書きさして見おろしませる加茂の河しろき
なつかしの湯の香梅が香山の宿の板戸によりて人まちし闇
詞にも歌にもなさじわがおもひその日そのとき胸より胸に
くさぐさの色ある花によそはれし棺のなかの友うつくしき
与謝野 晶子(1878-1942)
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与謝野晶子
2017年3月30日木曜日
こよいあふひとみなうつくしき
吉野山さくらが枝に雪降りて花おそげなる年にもあるかな
吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ
吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ
ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ
西行法師
行かむ人來む人しのべ春かすみ立田の山のはつざくら花
大伴家持
いそのかみ古き都を來て見れば昔かざしし花咲きにけり
春霞たなびく山の桜花 うつろはむとや色かはりゆく
詠み人知らず
清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき
与謝野晶子
わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪きゐる見ゆ
かすかなる風ある空かさくらばな雪片のごともしばし宙舞ふ
しんしんと頭の底にも陽は差してそこも桜の無惨の白さ
花朽ちて沈みてゆきし野の井戸の無明無限の水深想ふ
河野裕子
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花
2017年3月29日水曜日
2017年3月26日日曜日
2017年3月25日土曜日
2017年3月21日火曜日
2017年3月6日月曜日
あんしん
山田リオCopyright©2017RioYamada
しょうがくせいのとき
くらくなってから でかけて
ちかくの いけにいった
そこは ひるま ひとりで くちぼそをつったり
アメンボが すいめんをすべるのをみたりする
おきにいりの すきなばしょだった
このひは よるになってから いけにいった
いけのそばで しゃがんでいた
まっくらな いけのほうから カモのこえがきこえた
みんな ちいさいこえで はなしていた
「おい」「いるか」「いる」「よし」
「ここ」「だいじょぶ」「いる」「うん」
そんなふうに みじかいことばで
「ここ」「げんき」「いる」「うん」
「ねたか」「おきてる」「うん」「だいじょぶ」
すこしだけ なにもきこえなくて で また
「おい」「なに」「だいじょぶ」「うん」「いっしょ」
「あんしん」「うん」「いっしょ」「あんしん」
ちいさいこえで きれぎれに
さむくなってきたから かえろうとおもった
たって いけをみたけど なにもみえない
くらいみちを だまって ひとり あるいた
かもは あんしん
かもは あんしん
ぼくはだまって ひとりあるいた Copyright©2017RioYamada
しょうがくせいのとき
くらくなってから でかけて
ちかくの いけにいった
そこは ひるま ひとりで くちぼそをつったり
アメンボが すいめんをすべるのをみたりする
おきにいりの すきなばしょだった
このひは よるになってから いけにいった
いけのそばで しゃがんでいた
まっくらな いけのほうから カモのこえがきこえた
みんな ちいさいこえで はなしていた
「おい」「いるか」「いる」「よし」
「ここ」「だいじょぶ」「いる」「うん」
そんなふうに みじかいことばで
「ここ」「げんき」「いる」「うん」
「ねたか」「おきてる」「うん」「だいじょぶ」
すこしだけ なにもきこえなくて で また
「おい」「なに」「だいじょぶ」「うん」「いっしょ」
「あんしん」「うん」「いっしょ」「あんしん」
ちいさいこえで きれぎれに
さむくなってきたから かえろうとおもった
たって いけをみたけど なにもみえない
くらいみちを だまって ひとり あるいた
かもは あんしん
かもは あんしん
ぼくはだまって ひとりあるいた Copyright©2017RioYamada
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あんしん
2017年2月8日水曜日
2017年2月6日月曜日
2016年12月18日日曜日
祭りの日
山田リオ祭りだなあ
と 思う
生きているのは
祭りだ
つくづく そう思う
それは ときどきやってくる祭りではなくて
今日 一日だけの祭りだ
べつに 気の合った仲間たちと集まって
盛り上がる みたいな事ではなくて
それは 一人きりでいいんだ
ときには 二人だってかまわない
今 外で鳴いている鳥でもいいし 昆虫とだっていい
それもべつに いてもいなくても
あってもなくても いいんだ
今日
そして今 ここにこうしていること
それが祭りだと思う
それこそが祭りだ
それはまったくすごいことで
ありがたいことだ
だから 今日は祭りの日で
今はまだ 生きている
そして 今日がもうすぐ終わって
明日の朝 もしも目が覚めて
その時 ぼくがまだ呼吸しているのなら
明日は 祭りの日だ
ほんとうにありがたい
めでたい 祭りの日だCopyright©2016RioYamada
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祭りの日
2016年12月14日水曜日
2016年11月30日水曜日
2016年11月21日月曜日
2016年11月7日月曜日
「生々流転」2007 再録
■2007/12/28 (金) 生々流転
「生々流転」 山田リオCopyright©2007RioYamada
テレビで福岡伸一さんの対談を聞いていて
それは、きちんと書き取っていなかったのだが
聞きながら、「生々流転」という言葉を考えていた
福岡さんの話では、人間の肉体というものは
ガスのようなもので、常に入れ替わっているという
肉も骨も内臓も脳も血管も
身体のすべての細胞そのものも、内容も、すべてが
今日食べた物の分子と絶えず入れ替わっていて
それはたぶん、川や雲や風や海がそうであるように
私たちの肉体もまた、絶えず流れているのだという
だから、一年たてば、一人の人の身体は
一年前の、あの身体とは全く別の分子や粒子で出来ていて
そしてなおも、絶えず新しい分子が流れこみ、受け入れ
古い肉体の構成要素を排泄しながら絶えず自身を革新し
排泄されたものは、また別の生命体の、または無生物の
構成要素として入れ替わり、流れていくという
ガスのように流れている粒子の、その一瞬が、たまたま
一人の人の生だ、というのが現代の科学の結論だというのなら
大昔の無知な人が思っていた命とは、生々流転とは
古いけれど、同時に、無知どころか
おそろしく進歩的で、かつ真理だったわけだ
その思いは、わたしをすっかり安心させた
そうか、そうだったのか
わたしの肉体が生きている間も、そして死んだあとも
わたしを構成するすべての粒子は自然に帰って行っているわけで
わたしがいなくなっても、わたしの身体の分子や粒子は
バクテリア、菌類、ミミズ、昆虫、鳥、樹、草、雨、風、川、海
そういうわたしの好きな自然界のなかまの一部になって
無数の生命や風土、気象や天空へもどって行って
無限にめぐり、循環を繰り返してしてゆくのなら
それはつまり、みんな、なんでも不滅だということだ
生まれ変わる、というのは、そういうことだったのか
それなら、死ぬことも、生まれることも、生きることも
すべてが、陽に光って流れる川のように思えてきて
なんだか、ひとりで
ほほえんでしまう。Copyright©2007RioYamada
「生々流転」 山田リオCopyright©2007RioYamada
テレビで福岡伸一さんの対談を聞いていて
それは、きちんと書き取っていなかったのだが
聞きながら、「生々流転」という言葉を考えていた
福岡さんの話では、人間の肉体というものは
ガスのようなもので、常に入れ替わっているという
肉も骨も内臓も脳も血管も
身体のすべての細胞そのものも、内容も、すべてが
今日食べた物の分子と絶えず入れ替わっていて
それはたぶん、川や雲や風や海がそうであるように
私たちの肉体もまた、絶えず流れているのだという
だから、一年たてば、一人の人の身体は
一年前の、あの身体とは全く別の分子や粒子で出来ていて
そしてなおも、絶えず新しい分子が流れこみ、受け入れ
古い肉体の構成要素を排泄しながら絶えず自身を革新し
排泄されたものは、また別の生命体の、または無生物の
構成要素として入れ替わり、流れていくという
ガスのように流れている粒子の、その一瞬が、たまたま
一人の人の生だ、というのが現代の科学の結論だというのなら
大昔の無知な人が思っていた命とは、生々流転とは
古いけれど、同時に、無知どころか
おそろしく進歩的で、かつ真理だったわけだ
その思いは、わたしをすっかり安心させた
そうか、そうだったのか
わたしの肉体が生きている間も、そして死んだあとも
わたしを構成するすべての粒子は自然に帰って行っているわけで
わたしがいなくなっても、わたしの身体の分子や粒子は
バクテリア、菌類、ミミズ、昆虫、鳥、樹、草、雨、風、川、海
そういうわたしの好きな自然界のなかまの一部になって
無数の生命や風土、気象や天空へもどって行って
無限にめぐり、循環を繰り返してしてゆくのなら
それはつまり、みんな、なんでも不滅だということだ
生まれ変わる、というのは、そういうことだったのか
それなら、死ぬことも、生まれることも、生きることも
すべてが、陽に光って流れる川のように思えてきて
なんだか、ひとりで
ほほえんでしまう。Copyright©2007RioYamada
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「生々流転」
2016年10月28日金曜日
年老いたアジアの手
Old Asian Hand
中国系アメリカ人現代女性詩人、マリリン・チンの、Old Asian Handです。訳:山田リオ
年老いた アジアの手
中国系アメリカ人現代女性詩人、マリリン・チンの、Old Asian Handです。訳:山田リオ
年老いた アジアの手
マリリン・チン 山田リオ訳
年老いた アジアの手よ
わたしの ハタハタと羽ばたく
ここに 触れよ
この わたしの心臓
わたしの 胸の蝶々
すみれ色の 椿の花
この心臓が 真夜中に 鼓動する
年老いた アジアの手よ
おまえの体の 左半分を
今 月光が 切り取っている
あの 黄色いもの あれは 草
身もだえすることを
学ぶことがなかった 草だ
年老いた アジアの手よ
蒼い赤道の下に 秋の初めの
湿った 温かな 地衣類が 見えるか?
新たな 民族離散という名の
泥炭層 その すぐ下には
透明な 冷たい水が 流れている
copyright2005© rio yamada
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マリリン・チン
2016年10月11日火曜日
八木 重吉 ②
秋のひかり
ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう
雨
窓をあけて雨をみていると
なんにも要らないから
こうしておだやかなきもちでいたいとおもう
石
ながい間からだが悪るく
うつむいて歩いてきたら
夕陽につつまれたひとつの小石がころがっていた
草に すわる
わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
草をむしる
草をむしれば
あたりが かるくなってくる
わたしが
草をむしっているだけになってくる
響
秋はあかるくなりきった
この明るさの奥に
しずかな響があるようにおもわれる
無題
ナーニ 死ぬものかと
児の髪の毛をなぜてやった
八木 重吉(1898-1927)
ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう
雨
窓をあけて雨をみていると
なんにも要らないから
こうしておだやかなきもちでいたいとおもう
石
ながい間からだが悪るく
うつむいて歩いてきたら
夕陽につつまれたひとつの小石がころがっていた
草に すわる
わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
草をむしる
草をむしれば
あたりが かるくなってくる
わたしが
草をむしっているだけになってくる
響
秋はあかるくなりきった
この明るさの奥に
しずかな響があるようにおもわれる
無題
ナーニ 死ぬものかと
児の髪の毛をなぜてやった
八木 重吉(1898-1927)
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八木 重吉
2016年9月20日火曜日
雨
雨 詩:エンリケ・カディカモ(1900-1999)
ブエノスアイレス、アルゼンチン 訳:山田リオ
夜は けだるい冷たさでいっぱいで
風が 聞きなれない 悲しい唄を運んでくる
それは まるで 夜の 切れぎれの断片
その影のなかを ゆっくり進む
そして 雨だ
雨は わたしの心臓に刺さる 棘のようだ
このあまりにも冷たい夜は
そのまま私だ 私の中の空虚だ
それをちぎって 捨てて 忘れようとしても
記憶は・・・
雨 悲しみ 一人 舗道の上に凍りついている心臓
氷の冷たさに 忘れていた傷から 雨は滴る
ただ 道に迷って
影の中をさまよう 幽霊のように
雨そのもののように
夜は けだるい冷たさでいっぱいで
道を渡るものは だれもいない
街灯に 照らされて 舗道が光る
そして 私は ただの紙くず
永遠に 一人だということを
思い出せ
雨滴が 私の心の水たまりに 落ちる
骨に沁みる この 屈辱 苦痛
また 風がやってきて
わたしの背中を 押す・・ Copyright©2016RioYamada
《「雨」は、アルゼンチン・タンゴの歌詞です。
ブエノスアイレス、アルゼンチン 訳:山田リオ
夜は けだるい冷たさでいっぱいで
風が 聞きなれない 悲しい唄を運んでくる
それは まるで 夜の 切れぎれの断片
その影のなかを ゆっくり進む
そして 雨だ
雨は わたしの心臓に刺さる 棘のようだ
このあまりにも冷たい夜は
そのまま私だ 私の中の空虚だ
それをちぎって 捨てて 忘れようとしても
記憶は・・・
雨 悲しみ 一人 舗道の上に凍りついている心臓
氷の冷たさに 忘れていた傷から 雨は滴る
ただ 道に迷って
影の中をさまよう 幽霊のように
雨そのもののように
夜は けだるい冷たさでいっぱいで
道を渡るものは だれもいない
街灯に 照らされて 舗道が光る
そして 私は ただの紙くず
永遠に 一人だということを
思い出せ
雨滴が 私の心の水たまりに 落ちる
骨に沁みる この 屈辱 苦痛
また 風がやってきて
わたしの背中を 押す・・ Copyright©2016RioYamada
《「雨」は、アルゼンチン・タンゴの歌詞です。
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雨
2016年9月15日木曜日
2016年9月10日土曜日
あの日 311短歌 再録
2014年3月19日水曜日
あの日 311短歌
この海が いつもと違う顔をして
町中のみこみ 静かに去った 新妻愛美
黒い波 夫 手を離しのまれゆき
私はワタシは ムンクになった
あまりにも よく似た人を追いかけて
いつまで続く この寂しさは 山崎節子
あの道も あの角もなし 閖上一丁目
あの窓もなし あの庭もなし
生と死を 分けたのは何 いくたびも
問いて見上げる三日目の月
かなしみの 遠浅をわれはゆくごとし
十一日の度(たび)の冷たさ
「届かなかった声がいくつもこの下に
あるのだ」 瓦礫を叩くわが声 斉藤梢
寂しげに繋ぎおかれしわが犬を
はなしてやりぬ 生きのびろよと 半谷八重子
差し込まむ 穴無き鍵の捨てられず
流されし家の玄関のカギ
遺体写真 二百枚見て水を飲む
喉音たてずに ただゆっくりと 佐藤成晃
鍵をかけ 箱にしまったあの頃を
掌で包み 生きるこれから 渡邊穂
いつ爆ぜむ青白き光深く秘め
原子炉六基の白亜連なる
廃棄物は地元で処理だ? ふざけるな
最終処分場にされてたまるか 佐藤祐偵
ひるがえる 悲しみはあり三年の
海、空、山なみ ふるさとは 青
ふるさとを 失いつつあるわれが今
歌わなければ 誰が歌うのか 三原由紀子
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311短歌
2016年9月8日木曜日
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