よし子さんは、週のうち一日だけ、日曜日だけは彼女自身と、アメリカ人の画家であるご主人のためにあけてあった。
だから、ぼくら夫婦は彼らの山の家に週末泊まりに行ったり、いっしょにテニスのダブルスをやったりしていた。
ふだんのよし子さんは、インチキな関西弁を駆使する、おかしなおばさんだった。落語が好きだった。
彼女の癌が悪化した時、ぼくらはもうカリフォルニアに引っ越した後だったが、よし子さんは自分の病状をすべて把握していた。
「病院で死にたくないからね。私はこの家で死ぬのがいいから、そうする。」電話で、よし子さんはそう言った。
末期で苦しんでいるときでも、よし子さんは電話をしてくれて、長話をした。
それから、亡くなったあとの、支援組織との連絡なども、指示した。
そうやって、松本よし子さんは、四十台の若さで旅立って行った。
よし子さんは、子供はいなかった。
自分自身やご主人のことよりも、無数にいる他人のことを大切にしたのが、よし子さんという人だった。
自分が末期癌で痛みに苦しんでいるときも、よし子さんは癌生還者グループやエイズの若者、家庭内暴力の被害者女性、そういうみんなのことばかり、いつも心配していたのだ。
よし子さんにとって、苦しんでいる者はすべて、よし子さんの子供のように大切な人だったのだろうと思う。
わたしは、松本よし子さん以外に、そういう人を知らない。
そういう人がいたことを書いておきたいと思ったので、書きました。(つづく)
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