2011年5月10日火曜日

雪まろげ

■2007/11/29 (木) 雪まろげ

「雪まろげ」
                  一中節、久保田万太郎
水仙の 香もこそ師走 煤はらふ
ことぶき さても あけぼのの
空にのこれる 雲の凍(い)て

かくれ住み 門(かど)さしこめし 老いの身の
見まじ 聞くまじ 語るまじ
心ひとつに 誓へども
葦の枯葉を 渡る風
こぎゆく舟に 立つ波や
日かげ やうやく薄れきて
またもや 雪となりにけり 

数ならぬ 身とな思ひそ 亡き人よ いま亡き人よ
おもかげは 君 火をたけ よきもの見せむ 雪まろげ
よきもの見せむ 雪まろげ

【注:「君火をたけよきものみせむ雪まろげ」は芭蕉の句です。
  「雪まろげ」とは、雪を丸める子供の遊びで、
  万太郎の「雪まろげ」は言うまでもなく、芭蕉を題材にした一中節ですが、
  この詩には、晩年の万太郎を残して逝った最愛の女性に語りかける万太郎がいます。】

また、「雪まろげ」という随筆集があり、久保田万太郎の弟子だった安藤鶴夫先生の著書です。
 安藤鶴夫先生は寄席や芝居のことを書いた人。祖父が好きで、著書を集めていました。
あだ名は「カンドウスルオ」、感動家で、すぐに泣かれたそうです。

■2007/11/23 (金) 青葉繁れる

青葉繁れる(大楠公)                落合直文

青葉繁れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(へ)に
散るは涙かはた露か

正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴(おもむ)かん
彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せん
いましはここ迄来れども
疾く疾く(とくとく)帰れ故郷(ふるさと)へ

父上いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
御供仕えん死出の旅

いましをここより帰さんは
わが私の為ならず
己れ討死為さんには
世は尊氏(たかうじ)の儘ならん
早く生い立ち大君(おおきみ)に
仕えまつれよ国の為

このひとふりは古し(いにし)年
君の賜いし(たまいし)物なるぞ
この世の別れの形見にと
いましにこれを贈りてん
行けよ正行ふるさとへ
老いたる母の待ちまさん

共に見送り見返りて
別れを惜しむ折からに
またも降りくる五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる不如帰(ほととぎす)
誰かあわれと聞かざらん
あわれ血に啼くその声を

■2007/11/11 (日) ほうさい、と読みます

尾崎放哉の俳句

足のうら洗へば白くなる

とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた

鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た

水を呑んでは小便しに出る雑草

一疋の蚤をさがして居る夜中

わが肩につかまつて居る人に眼がない

蓮の葉押しわけて出て咲いた花の朝だ

切られる花を病人見てゐる

障子あけて置く海も暮れきる

爪切つたゆびが十本ある

底がぬけた柄杓で水を飲もうとした

となりにも雨の葱畑

咳をしても一人

すつかり病人になつて柳の糸が吹かれる

■2007/12/28 (金) 生々流転

「生々流転」
                      山田リオ
テレビで福岡伸一さんの対談を聞いていて
それは、きちんと書き取っていなかったのだが
聞きながら、「生々流転」という言葉を考えていた
福岡さんの話では、人間の肉体というものは
ガスのようなもので、常に入れ替わっているという
肉も骨も内臓も脳も血管も
身体のすべての細胞そのものも、内容も、すべてが
今日食べた物の分子と絶えず入れ替わっていて
それはたぶん、川や雲や風や海がそうであるように
私たちの肉体もまた、絶えず流れているのだという
だから、一年たてば、一人の人の身体は
一年前の、あの身体とは全く別の分子や粒子で出来ていて
そしてなおも、絶えず新しい分子が流れこみ、受け入れ
古い肉体の構成要素を排泄しながら絶えず自身を革新し
排泄されたものは、また別の生命体の、または無生物の
構成要素として入れ替わり、流れていくという
ガスのように流れている粒子の、その一瞬が、たまたま
一人の人の生だ、というのが現代の科学の結論だというのなら
大昔の無知な人が思っていた命とは、生々流転とは
古いけれど、同時に、無知どころか
おそろしく進歩的で、かつ真理だったわけだ

その思いは、わたしをすっかり安心させた
そうか、なるほど
わたしの肉体が生きている間も、そして死んだあとも
わたしを構成するすべての粒子は自然に帰って行っているわけで
わたしがいなくなっても、わたしの身体の分子や粒子は
バクテリア、菌類、ミミズ、昆虫、鳥、樹、草、雨、風、川、海
そういうわたしの好きな自然界のなかまの一部になって
無数の生命や風土、気象や天空へもどって行って
無限にめぐり、循環を繰り返してしてゆくのなら
それはつまり、みんな、なんでも不滅だということだ
生まれ変わる、というのは、そういうことだったのか
それなら、死ぬことも、生まれることも、生きることも
すべてが、陽に光って流れる川のように思えてきて
なんだか、ひとりで
ほほえんでしまう。

■2007/12/17 (月) 石野見幸の歌

You've got a friend 「ひとりのともだち」

Lyrics and Music: Carole King 詩と音楽:キャロル・キング  
【In memory of Miyuki Ishino (石野見幸)】    訳:山田リオ

あなたが落ち込んだとき、苦しいとき
やさしくしてほしいとき
なにもかも、うまくいかないとき
目を閉じて、わたしのことを思って
わたしは、すぐに行くからね
あなたの真っ暗な夜を、明るくするために

ただ、声に出して、わたしの名を呼んで
わたしは、どこにいても
走ってあなたに逢いに行くから
冬でも、春でも、夏でも、秋でも
ただ、呼ぶだけ
そうすれば、すぐに行くからね
あなたには、ひとり、ともだちがいるんだから

もしも、あなたの上にある空が
暗くなって、雲でいっぱいになって
そして、北風が吹き始めたら
あわてずに、よく考えて
私の名を、大声で呼んで
そうすれば、すぐにあなたのドアをノックするから

ひとり、ともだちがいてよかった、そう思って
みんなが、とても冷たくて
みんなが、あなたを傷つけ、去って行き
ついでに、あなたの魂さえも、奪って行くかもしれない
でも、あいつらに、そんなことさせちゃいけない

ただ、声に出して、わたしの名を呼んで
わたしは、どこにいても
走ってあなたに逢いに行くから
冬でも、春でも、夏でも、秋でも
ただ、呼ぶだけ
そうすれば、すぐに行くからね
あなたには、ひとり、ともだちがいるんだから

(All rights reserved 、2007Rio Yamada
このHPの全ての記事は著作権法によってコピー、転載を禁止されています。)

■2007/12/09 (日) 海流

「海流」
                        山田リオ
琥珀色にすきとおる蝉の抜け殻は
ほとんど重さもないに等しく
握れば、手の中で粉々に砕ける
かってその中にいたはずのいのちは
もうすでにどこかへ行ってしまったから
これを、抜け殻と呼ぶのだけれど
この軽さ、半透明さ、たよりなさこそ
いのちそのものではないのか
枝をはなれたレモン色のポプラの枯葉も
もういまは、軽くなって風に踊っている
いのちのない抜け殻であるはずなのに
この軽さ、半透明さ、たよりなさこそ
いのちそのものではないのか

あのころわたしは
入り江を見下ろす家に住んでいた
秋の終わりの灰色の厚い雲が空いっぱいで
来る日も来る日もこまかい雨が降っていた
入り江は、鈍色に光る外海へとつながっていて
そういう小雨の降る夜更けに
それは外海のほうから入り江を通ってやってきた
それは、窓の外に立ち
人間の言葉には翻訳できない言葉で
ひそやかに、夜通しささやきつづけた

夜が明けると
抜け殻は、ねっとりとした海面を
かすかな風によって流され
入り江を横切り
灰色の雲の下、外海へと向かう
群青色の海水のなかに、ひとすじの暗緑色の流れがあって
そのゆったりとした流れは、やがてうねりとなり
軽い、半透明な、たよりないいのちを
その巨きな背に乗せたまま
大きく、高く、深くうねりながら
確信を持って、ある方向へ運んでゆく

厚い雲の切れ間から
一筋の光が、天空から海面へとまっすぐに
そのとき、抜け殻は光を受けてすきとおり、きらめく
それは、いのちそのものなのか
あるいは、ただの抜け殻にすぎないのか
それでも、暗緑色の海流はなおも大きくゆったりとうねりながら
それを、巨きな背に乗せたまま
大きく、高く、深くうねりながら
確信を持って、ある方向へ運んでゆく
  

(All rights reserved 、2007 Rio Yamada
このHPの全ての記事は著作権法によってコピー、転載を禁止されています。)

■2007/12/03 (月) 露けさのひとつの灯さえ消えにけり

ほんとうに申し訳ありません。もうひとつ間違いを発見しました。
万太郎の作と思いこんでいた、

露けさのひとつの灯さえ消えにけり

という句は、実は岡本松浜(しょうひん)の句でした。
うろおぼえで引用などするものではありませんね。
まことに恥ずかしいことです。
まるで、能の「忠度」、「青葉の笛」、そのままです。
汗顔の至り。松浜先生が現れて、恨み言を言われてもしかたありません。
お詫び申し上げます。合掌。

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露けさのひとつの灯さえ消えにけり

褄(つま)とれば片手に重し傘の雪

やすらへば手の冷たさや花の中         岡本松浜


■2007/12/03 (月) 雪中庵十二世、益田龍雨

とんだ勘違いをしていたことに気が付きました。
万太郎の一中節を掲載して、その流れで俳句も、と思って俳本を見ていたら、

「繭玉の霞むと見えて雪催い」(まゆだまのかすむとみえてゆきもよい)

とあって、「雪中庵十二世、益田龍雨」、とありました。
万太郎と思いこんでいた好きな句は、実は、龍雨の作でありました。
実に申し訳ないことをしてしまいました。合掌。

龍雨を検索しても、ほとんど出てきませんね。
龍雨で思い出すのは、寄席の句です。
落語家のみなさん、なんとかなりませんか?
マスコミが無視するものは、自動的にこの世から消え去ってしまう、というのであれば、ネットが存在する意味がなくなります。
江戸最後の俳人、龍雨が忘れ去られてしまうのは、あまりにも悲しいことです。
かく言うわたくしも、龍雨を忘れかけていた一人ですが。

龍雨、万太郎の句を併せて掲載します。    山田

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講釈場すくなくなりし袷(あわせ)かな     

叉一つ寄席なくなりし夜寒かな

一生を前座で通す夜長かな

死ぬことも考へてゐる日向ぼこ

春の灯や立花亭の雪の傘

繭玉(まゆだま)の霞むと見えて雪催い(ゆきもよい)     益田龍雨

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短夜(みじかよ)のあけゆく水の匂いかな

神田川祭りの中をながれけり

枯野はも縁の下までつづきおり

雪掻いている音ありしねざめかな

ほとほととくれゆく雪の夕(ゆうべ)かな
 
まゆ玉にさめてふたたび眠りけり

死んでゆくものうらやまし冬ごもり

何か世のはかなき夏のひかりかな       久保田万太郎

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