2011年5月10日火曜日

粥、友よ 2006

2006年、かなり弱って、食べられなくて、体重もかなり減っていた頃。
読み返して、思い出している。
ニューヨークの911テロ事件は、その五年前、2001年か。。
                        山田リオ  

■2006/12/23 (土) 粥

「粥」                      山田リオ

寒い日に、いつも行くお粥の店は
おばさん三人がやっている店で
そこに行けば、アワビのお粥がたべられる
昨日は、自分の家でお粥を食べたくなって
しかし、アワビは高いので、帆立貝を買ってきた
お粥専用の底の浅い土鍋に利尻昆布を入れて出しをとり
細かく切った帆立貝を入れて、ゆっくりと煮ていく
最後にお米も入って、ふたをすれば、お粥ができる
火を止めてしばらく待ってから、ふたをとり
有精卵の黄身を真ん中に置いて、お粥と混ぜる
おかずは、シメジ茸と湯葉を醤油と出しで煮たもの
上野鈴本演芸場のとなりの福神漬けも、お粥によく合う
それから、和歌山の甘い梅干も忘れずに
そうやって、帆立貝の味と香りのお粥を食べよう
「おいしいね」、そう言いあって食べれば
お粥は、どんなに高価な美食よりも
腹も心もあたためてくれる
魂の食事だ


■2006/12/17 (日) 友よ(2)

『友よ』(第二回)

よし子さんは、週のうち一日だけ、日曜日だけは彼女自身と、アメリカ人の画家であるご主人のためにあけてあった。
だから、ぼくら夫婦は彼らの山の家に週末泊まりに行ったり、いっしょにテニスのダブルスをやったりしていた。
ふだんのよし子さんは、インチキな関西弁を駆使する、おかしなおばさんだった。落語が好きだった。

彼女の癌が悪化した時、ぼくらはもうカリフォルニアに引っ越した後だったが、よし子さんは自分の病状をすべて把握していた。
「病院で死にたくないからね。私はこの家で死ぬのがいいから、そうする。」電話で、よし子さんはそう言った。
末期で苦しんでいるときでも、よし子さんは電話をしてくれて、長話をした。
それから、亡くなったあとの、支援組織との連絡なども、指示した。
そうやって、松本よし子さんは、四十台の若さで旅立って行った。

よし子さんは、子供はいなかった。
自分自身やご主人のことよりも、無数にいる他人のことを大切にしたのが、よし子さんという人だった。
自分が末期癌で痛みに苦しんでいるときも、よし子さんは癌生還者グループやエイズの若者、家庭内暴力の被害者女性、そういうみんなのことばかり、いつも心配していたのだ。
よし子さんにとって、苦しんでいる者はすべて、よし子さんの子供のように大切な人だったのだろうと思う。
わたしは、松本よし子さん以外に、そういう人を知らない。

そういう人がいたことを書いておきたいと思ったので、書きました。


■2006/12/17 (日) 友よ

『友よ』(第一回)

九月十一日の朝、机に向かって何か書き物をしていたら、電話が鳴った。
会社にいる妻からで、「窓の外、見て。テレビつけて」彼女はそう言った。
窓から見ると、ダウンタウンのほう、国際貿易センターのあたりから黒煙が高く空に昇っている。テレビをつけると、そこには映画のような光景が映っていた。
国際貿易センターで働いている数人の友達に電話したが、誰にもつながらなかった。

数日後にやっとわかったのだが、このやろ女史は十日の深夜に友人が空港に着き、眠ったのが三時すぎになって寝過ごしてしまった。それで地下鉄で貿易セン ターにある会社に向かったのだが、マンハッタンで地下鉄が止まり、道路も通行止めで、8時間歩いてブルックリン橋を渡って家に帰った。いつもなら、このや ろ女史は朝八時に出勤だったはずだから、間違いなく事件にまきこまれただろう。
松本よし子さんは、九時出勤だったが、貿易センターの前の朝市で花を買っていたそうだ。そしてその時、あの事件が起こった。空から人が降って来た。
看護婦であるよし子さんも、どうすることもできなかった。

それから一年ほどしてから、あの事件で命が助かった松本よし子さんの癌が再発した。
それまで、よし子さん自身が癌の生還者だったので、彼女は個人的にニューヨークに住む日本人、とくに女性で、乳ガンや子宮ガンの患者や生還者の相互支援グループを作って、ミーティングをしたり、訪問したり、よし子さんは、それだけでも寝る時間もないほどだった。
それ以外にも、日本人が性交渉でエイズ感染する、あるいは麻薬使用者が注射器が原因でエイズや肝炎に感染するケースが多発していた、それもよし子さんは一人で駆け回って若い日本人との連絡網を作り、相談相手になっていた。
また、日本人女性が家庭内暴力を受ける、それは相手の男性が日本人に限らず、どんな国の人の場合でも起こっている問題で、そういう女性の相談を松本よし子さんは朝でも夜中でも引き受けていた。
よし子さんが倒れれば、そういう支援組織がすべて止まってしまう。


■2006/12/03 (日) 初めてのジャスミン

”The First Jasmines” by Rabindranath Tagore

「初めてのジャスミン」(詩集「三日月」より)
    ラビンドラナート・タゴール(1861~1941、インド)     訳:山田リオ

ああ、ジャスミン、このジャスミンの白い花を
初めて、両手いっぱいに抱えたあの日を思い出す
ジャスミン、このジャスミンの白い花

わたしは愛していた
陽光と空と緑の地球を
真夜中の暗闇のむこうからくる
川の水音を聞いていた
秋の夕日は、淋しい荒地の道の曲がり角から
わたしのほうにやってきた
花嫁がヴェールをそっと持ち上げて
恋人を迎えるように
でも私の記憶は、今でも甘く香っている
子供だったわたしが
あのとき、両手いっぱいに抱えていた
あの、初めての白いジャスミンの花

私の人生にも、たくさんの喜びの日々が訪れた
祭りの日には、みんなといっしょに騒ぎ、笑った

雨が降る灰色の朝には
無意味な歌を、いくつも小声で歌った

愛の手が編んでくれた
夕暮れのバクラスの花輪を
わたしは首にかけた

でも私の記憶は、今でも甘く香っている
子供だったわたしが
あのとき、両手いっぱいに抱えていた
あの、初めての白いジャスミンの花

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