2011年5月30日月曜日

風の朝

2011 rio yamada photo

        山田リオ

今朝は風が強い
低い雲がすごい速さで動いている
裏の駐車場のユーカリプタスの樹は
今は雲の影に入ったから
揺れて光っていた葉は
もう見えない






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2011年5月29日日曜日

絨毯

                  山田リオ



ずいぶんと紫色な絨毯です
樹の影もなんだか意味ありげで
すこしの間そこに座って
なにか紫色な話でもしませんか





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2011年5月17日火曜日

ゆめ

                 山田リオ

昨日見た夢、明日見る夢
夢は今日見るもの
今、見るもの

昨日見た夢は、蝉の抜け殻
遠い未来に願う夢は、煙のよう
明日を願う夢は、たよりない

今日出来ることを、今日する
それがほんとうの夢

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2011年5月15日日曜日

はちみつのあきびんの中

                      木村信子
はちみつのあきびんの中のお金はだんだんへってゆく    
わたしは外国なまえの菓子パンを食べている    
もうわたしあての電話なんかいく日もかかってこない    
時間はだんだん過ぎてゆく    
わたしが食べているのは    
菓子パンなんかじゃなくて    
もっと哀しく美くしいもの    
とてもとうとく侵しがたいもの    
たしかなことは    
はちみつのあきびんの中のお金がだんだんへってゆくことと    
いまわたしは外国なまえの菓子パンを食べているということ    
からっぽになったはちみつのあきびんへ    
つぎに入れるものをおもいながら

2011年5月11日水曜日

杉田久女


娘がいねば夕餉もひとり花の雨 
(こがいねばゆうげもひとりはなのあめ)

花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ 
(はなごろもぬぐやまつわるひもいろいろ)

朝顔や濁り初めたる市の空    
(あさがおやにごりそめたるいちのそら)

露草や飯吹くまでの門歩き    (つゆくさやいいふくまでのかどあるき)

船板に東風の旗かげ飛びにけり (ふないたにこちのはたかげとびにけり) 

鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな (とりくもにわれはあすたつちくしかな)

谺して山ほととぎすほしいまま   (こだましてやまほととぎすほしいまま)

                                         杉田久(1890-1946)

引越し第一回の記事に、杉田ひさを選びました。
この女性の波乱の生涯については、吉屋信子の「底の抜けた柄杓」という伝記があります。
また、戸板康二も「泣きどころ人物誌」という評伝で取り上げています。              やまだ

2011年5月10日火曜日

お蕎麦をどうぞ

どうにか滞りなく引越しできたようです。
これから、ここで書いていこうと思います。

青いビニールシートを修理したり、
いろいろとやることはありますが。
のんびりいこうと思います      やまだ

ともだち

■2011/05/01 (日) 一年生になったら、ともだち百人できるかな

「友達であるということ自体、それは、ほとんど専業だと言っていい。
あなたとその人が、ほんとうの友達であるならば、だ。
だから、たくさんの友達を持つなんてことは、不可能だ。
それでもたくさん友達がほしい、と言うなら、

あなたと、そのたくさんの人たちは、ほんとうの友達ではないのだ。」

トルーマン・カポーテ(1924-1984)は、アメリカの作家、コメディアン。

可楽

■2011/04/19 (火) 言葉が生まれるとき

「言葉が生まれるとき」            山田りお

しずかに。
今、この人の中で、なにかが動き始めている
この人の内側で、形を得ようとして、かすかに蠢くもの
そして、この人の唇から、言葉が生まれようとする

誰かの言ったことを繰り返す、物まねではない
みんなが何度も言った、手垢のついた言葉は、汚れている
それを得意そうに言う、オウムのような人の声に、その表情に、
命の輝きなんか、ありはしない。

この人は、みんなから尊敬されるような人ではない
たくさんの本を読み、叡智を蓄えたわけでもない
まわりを見回したり、批評したり、流行を追いかける余裕もなく
長い道のりを、ひとり懸命に歩いてきた、そういう人だ

でも、今このとき、この人の内側に、
ほんとうにあったものが少しずつ形をとり、
やがて、それが言葉になり、生まれ出ようしている時
人は、あんなに美しい表情になるんだ
聞くがいい。いま生まれ出る、この人だけの言葉を。

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■2011/04/12 (火) 命どぅ宝

命どぅ宝。ぬちどぅたから。
お金でもない。地位でもない。

■2011/04/04 (月) アチェベ

「私たちが経験によって学んだ唯一のことは、『私たちは経験から何一つ学ばない』ということだ。」

チヌア・アチェベ(1930年生まれ)は、ナイジェリアの詩人、小説家。

■2011/04/02 (土) 一部抜粋ですが・・

谷川の岸に小さな学校がありました。
 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。
運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。
 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。


■2011/04/01 (金) 可楽

*海棠や悩みなき日のつづきけり

夕月や青田をわたる風の色

片耳はコオロギに貸す枕かな

枯蓮に師走の水の動かざる

さりながら死にたくもなし年の暮
                   七代目三笑亭可楽

                      海棠(かいどう)

「雨」 尾形亀之助

■2010/07/31 (土) もしも見つけたならば

もしも見つけたならば     アルバ・シモネス(ポルトガル)訳:山田リオ

もしも見つけたならば、教えてあげよう
失った時間と、去って行った魂のことを
人生という逆流のなかで
もしも見つけたならば・・・
自分を待っているのだろうか
自分を捜しているのだろうか
あの無数の境界線のせいで
わたしは、あのエロスを見逃していた
風は吹き、光は失われ
わたしは眠りに落ちた
すべては結局、徒労なのか?
誘惑というゲームの中で
神話は失われ、苦しみ、そして明らかになる・・・
すべては、徒労なのか?
二度と取り戻せない人生
時間という名の宇宙塵の中で
もうとっくにわたしではなくなってしまったものが
夜明けという名の腕に抱かれ
いま、魅惑だけがわたしの夢のなかに残された
でも、あなたの顔を思い出せない
あの清らかで、ナイーヴで、言葉にするにはあまりにも不純な
あの、あなたの顔を、思い出すことができない

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■2010/07/30 (金) やまゆりがさいている

「やまゆりがさいている」         木村信子

  やまゆりそれは
  老婆がわすれた絵ひがさ
  青色人神が
  星牢のなかで泣いている
  むしかえすたびむし歯がおこる痴わげんか
  てんき雨がしみてゆく時間
  てんてけてんてんてけてん
  という調子に狂ってゆく
  草の上で
  はだかで草をむしってたべている村びと
  もうこの村へ帰ってくることはできないと思っていたのに
  てんてけてんてんてけてん
  わたしはじぶんのためにじぶんで調子をとる
  やまゆりがさいている
  その花の下にすわって
  食事をはじめる
  わたしのからだがだんだん
  青くなってゆく明るい時間


■2010/07/22 (木) 「小さい男」

「小さい男」    小柳玲子

  朝 名前もつけられない小さな男が一ぴき 私の歯の中から冬の中
  に出ていった。彼は歯科医のうがい台の中 その細い管の奥へまぎ
  れてしまったので 私はわざわざ呼びとめなかった。その後男をみ
  かけないので この小さい男の物語は終りになった。「顔はどうだ
  ったか」と友達はきくが――顔があったかどうか思い出せない。そ
  れに思い出しても一向に役に立たないことを思い出すのは何とも苛
  苛するではないか。
  もっともある夕方 枕もとの水薬の中 あのうす青いビンの底に
  あの男がいた「私でしょうが いつかの男は」と彼は自分の鼻を指
  しながら言った。だけど私は高熱のため脂汗をしぼって呻いていた
  ので思わず「バカバカ」と怒鳴ってしまった。おまけに「あんな男
  の話は嘘にきまってるだろ」なんて本音を吐いてしまったのだ。


■2010/07/20 (火) 「見えている部分・いちにち」

「見えている部分・いちにち」     小柳玲子

   めまいに似た夏の朝
   ペチュニアの真紅を植える
   街は急に白いビルが多くなり
   従妹たちはよく笑う
   ホテルのプールは花みたい……
   ね? などとはしゃぎあう
   角の雑貨屋ばかりが
   どうしてだか私には鮮明に見える
   店先に忠雄伯父がよく呉れた
   デンキ花火が出ている
   夜更けて伯父は西の街へ還ったものだ
   戦争があって、さらに遠く
   永劫の方へ還っていった。
   「マシュマロ、買おう」
   「あら、ボンボンの方がいヽ」
   地下街の仏蘭西菓子店で
   従妹たちの
   匂うような、レースのような
   おしゃべりをきいている

   雲が湧き
   傾斜はくらいと思う
   喉の奥の深い傾斜のことだ
   焼けてしまった、あの二階家が
   そんな深さに未だ在って
   乏しい灯が入ると
   兄やわたしや
   かぼちゃの皿を囲んだ。
   夕食だった。

   テレビが海水浴のニュースを始める
   みがいたキッチンに佇つと
   こんな無益な孤りの果に
   単純な夜が落ちてくるのが
   不思議だ、と
   夏の、さびしい魚たちを
   鍋に入れる


■2010/07/18 (日) 「新生児」 再録
■2008/09/15 (月) 新生児

新生児       
                   山田リオ

声に出して読まれなかった詩は
演奏されない楽譜のようです
それは
生まれなかった赤ん坊です

あなたが声に出して読んでくださることで
はじめて
詩は命を得ます
あなたが声に出して読んでくださるたびに
何度でも
詩は新生児となって
この世に生まれ出るのです

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■2010/07/11 (日) 雨 尾形亀之助

「小さな庭」            尾形亀之助(1900-1942)
     
もはや夕暮れ近い頃である
一日中雨が降つてゐた
泣いてゐる松の木であつた

「雨日」

午後になると毎日のやうに雨が降る
今日の昼もずいぶんながかつた
なんといふこともなく泣きたくさへなつてゐた

「雨の祭日」

雨が降ると
街はセメントの匂ひが漂ふ

「雨が降る」

夜の雨は音をたてゝ降つてゐる
外は暗いだらう
窓を開けても雨は止むまい
部屋の中は内から窓を閉ざしてゐる


■2010/07/05 (月) 「運命に導かれ」

「運命に導かれ」 Destinos Traçados.
         アルバ・シモネス(現代ポルトガルの女流画家)山田リオ訳

足跡は残された
昼も夜も、月も世紀も
数々の顔も、そして皺も
愛は弓
運命に導かれ
未来に向かって
開かれたドアを通り抜け
でも、ああそのドアは、違う、でもみんなは、なんて自信満々なんだ
まっすぐな、あるいは歪んだ道でも?
おそらくは・・・
小道を歩き、通りを渡って、大通りを駆け抜ける、塀の上だって・・
誰なんだ?
大きな舞台と橋との間に、たくさんの塔が調和して
この人生で、わたしは、いつも一人取り残される、魂はいつも不安だから
みんな警告する、そして、情熱は爆破する
でもわたしが見つけた、この愛、には危険というものが、ない
ただ、生き延びることのリスクがあるだけ
この庭の生垣の中、裸足の少年が忍び足で進む
わたしの、星の案内人だ

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■2010/07/02 (金) 遠ざかるスケートボード


うれしいひと


■2010/04/20 (火) 「少女」

「少女」          エズラ・パウンド 訳:山田リオ

一本の木がわたしの両手の内部に入り、
樹液はわたしの両腕の中を流れ、
木は私の胸の中で育つ
下に向かって、
わたしから枝が生え出る、腕のように。

木はあなた、
苔はあなた、
あなたは風が吹きすぎるスミレの花。
あなたは・とても背の高い・子供、
そしてこんなものはみんな世界に対する愚行だ。

エズラ・パウンド(1885-1972)男性。アメリカの詩人。人生の大部分をヨーロッパで暮らした。


■2010/04/14 (水) 「うれしいひと」再録
■2005/02/09 (水) うれしいひと

「うれしいひと」 
                      山田リオ
永いあいだ会っていない人から電話がかかってきて
声を聞けば、その人がほほ笑んでいるのがわかる
自分も、話しながら自然に顔がほほ笑んでいる
「会いたいね」、そう口に出さないでも
おたがいが、そう思っているのがわかる

毎日、たくさんの時間をいっしょに過ごす人でも
その人がいなければ、会いたいと思う
そして、会って、いっしょにいれば
やっぱりうれしいから
自然に、笑顔になってしまう

ごくたまに、すれちがうような人で
名前も知らず、職業も地位も学歴も知らず
たとえ会っても、一言、二言
それで、またいつ会えるかわからない
そういう人でも、会って、目を見れば
おたがいの目がほほ笑んでいるから
おたがいが、会えてうれしいということがわかる
でも、別に、言葉でそれを言うわけでもなく
世間話や生活や仕事や子供のことや
そういう話を、ながながとするわけでもなく
「じゃ、また」それだけで、背を向けて歩み去ってゆく
でも、心の中ではあの人と会えたことがうれしくて
そしてあの人も、きっとそう思っているような気がするから
わたしは、しばらくの間、うれしい気持ちになるのだ

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ありがとう

2008/10/10 (金) ありがとう
ただいま。

みんな、ほんとうにありがとう。      り

旅行

■2008/09/19 (金) 読者のみなさま
一ヶ月ほど、旅行で留守にします。
悪しからず。           山田

プーさんの言葉

■2008/06/05 (木) プーさんの言葉

「くまのプーさんの言葉」     A.A.ミルン
Quotes from “Winnie the Pooh” by A.A.Milne

“Rivers know this: there is no hurry. We shall get there some day.”

「川は知っている。急ぐことはない、いつかはたどり着けるということを。」

“I used to believe in forever, but forever is too good to be true.”

「ぼくは昔、永遠を信じていた。でも永遠は、素晴らしすぎて、ありえない。」


■2008/07/21 (月) わたしは歸って行くであろう

「わたしは歸って行くであろう」     (「前奏曲」より)           野上彰(1909~1967)

わたしは歸って行くであろう
火山灰の積もっている谷の奥に
黄鶲(きびたき)が静かな巣を編んでいる樅(もみ)の林に

わたしは小さな丸木小屋を組んで住むであろう
きのこの生えた苔の上に
伊吹虎の尾に秋の終りの蜂が群れている崖の下に

わたしは死んで行くであろう
落葉松(からまつ)の月夜の霧につつまれて
わたしたちの上に積み重なった歳月の重さに喘ぎながら


■2008/08/17 (日) 三つの詩・尾形亀之助

「無題詩」            尾形亀之助(1900~1942)

夜になると訪ねてくるものがある

気づいて見ると
なるほど毎夜訪ねてくる変んなものがある

それは ごく細い髪の毛か
さもなければ遠くの方で土を堀りかへす指だ

さびしいのだ
さびしいから訪ねて来るのだ

訪ねて来てもそのまま消えてしまつて
いつも私の部屋にゐる私一人だ

****************************

「彼の居ない部屋」
           
部屋には洋服がかかつてゐた

右肩をさげて
ぼたんをはづして
壁によりかかつてゐた

それは
行列の中の一人のやうなさびしさがあつた
そして
壁の中にとけこんでゆきさうな不安が隠れてゐた

私は いつも
彼のかけてゐる椅子に坐つてお化けにとりまかれた

*******************************

「夜の花をもつ少女と私」          

眠い――
夜の花の香りに私はすつかり疲れてしまつた

××
これから夢です

もうとうに舞台も出来てゐる
役者もそろつてゐる
あとはベルさえなれば直ぐにも初まるのです

べルをならすのは誰れです
××

夜の花をもつ少女の登場で
私は山高をかるくかぶつて相手役です

少女は静かに私に歩み寄ります
そして

そつと私の肩に手をかける少女と共に
私は眠り――かけるのです

そして次第に夜の花の数がましてくる

雪まろげ

■2007/11/29 (木) 雪まろげ

「雪まろげ」
                  一中節、久保田万太郎
水仙の 香もこそ師走 煤はらふ
ことぶき さても あけぼのの
空にのこれる 雲の凍(い)て

かくれ住み 門(かど)さしこめし 老いの身の
見まじ 聞くまじ 語るまじ
心ひとつに 誓へども
葦の枯葉を 渡る風
こぎゆく舟に 立つ波や
日かげ やうやく薄れきて
またもや 雪となりにけり 

数ならぬ 身とな思ひそ 亡き人よ いま亡き人よ
おもかげは 君 火をたけ よきもの見せむ 雪まろげ
よきもの見せむ 雪まろげ

【注:「君火をたけよきものみせむ雪まろげ」は芭蕉の句です。
  「雪まろげ」とは、雪を丸める子供の遊びで、
  万太郎の「雪まろげ」は言うまでもなく、芭蕉を題材にした一中節ですが、
  この詩には、晩年の万太郎を残して逝った最愛の女性に語りかける万太郎がいます。】

また、「雪まろげ」という随筆集があり、久保田万太郎の弟子だった安藤鶴夫先生の著書です。
 安藤鶴夫先生は寄席や芝居のことを書いた人。祖父が好きで、著書を集めていました。
あだ名は「カンドウスルオ」、感動家で、すぐに泣かれたそうです。

■2007/11/23 (金) 青葉繁れる

青葉繁れる(大楠公)                落合直文

青葉繁れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(へ)に
散るは涙かはた露か

正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴(おもむ)かん
彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せん
いましはここ迄来れども
疾く疾く(とくとく)帰れ故郷(ふるさと)へ

父上いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
御供仕えん死出の旅

いましをここより帰さんは
わが私の為ならず
己れ討死為さんには
世は尊氏(たかうじ)の儘ならん
早く生い立ち大君(おおきみ)に
仕えまつれよ国の為

このひとふりは古し(いにし)年
君の賜いし(たまいし)物なるぞ
この世の別れの形見にと
いましにこれを贈りてん
行けよ正行ふるさとへ
老いたる母の待ちまさん

共に見送り見返りて
別れを惜しむ折からに
またも降りくる五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる不如帰(ほととぎす)
誰かあわれと聞かざらん
あわれ血に啼くその声を

■2007/11/11 (日) ほうさい、と読みます

尾崎放哉の俳句

足のうら洗へば白くなる

とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた

鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た

水を呑んでは小便しに出る雑草

一疋の蚤をさがして居る夜中

わが肩につかまつて居る人に眼がない

蓮の葉押しわけて出て咲いた花の朝だ

切られる花を病人見てゐる

障子あけて置く海も暮れきる

爪切つたゆびが十本ある

底がぬけた柄杓で水を飲もうとした

となりにも雨の葱畑

咳をしても一人

すつかり病人になつて柳の糸が吹かれる

■2007/12/28 (金) 生々流転

「生々流転」
                      山田リオ
テレビで福岡伸一さんの対談を聞いていて
それは、きちんと書き取っていなかったのだが
聞きながら、「生々流転」という言葉を考えていた
福岡さんの話では、人間の肉体というものは
ガスのようなもので、常に入れ替わっているという
肉も骨も内臓も脳も血管も
身体のすべての細胞そのものも、内容も、すべてが
今日食べた物の分子と絶えず入れ替わっていて
それはたぶん、川や雲や風や海がそうであるように
私たちの肉体もまた、絶えず流れているのだという
だから、一年たてば、一人の人の身体は
一年前の、あの身体とは全く別の分子や粒子で出来ていて
そしてなおも、絶えず新しい分子が流れこみ、受け入れ
古い肉体の構成要素を排泄しながら絶えず自身を革新し
排泄されたものは、また別の生命体の、または無生物の
構成要素として入れ替わり、流れていくという
ガスのように流れている粒子の、その一瞬が、たまたま
一人の人の生だ、というのが現代の科学の結論だというのなら
大昔の無知な人が思っていた命とは、生々流転とは
古いけれど、同時に、無知どころか
おそろしく進歩的で、かつ真理だったわけだ

その思いは、わたしをすっかり安心させた
そうか、なるほど
わたしの肉体が生きている間も、そして死んだあとも
わたしを構成するすべての粒子は自然に帰って行っているわけで
わたしがいなくなっても、わたしの身体の分子や粒子は
バクテリア、菌類、ミミズ、昆虫、鳥、樹、草、雨、風、川、海
そういうわたしの好きな自然界のなかまの一部になって
無数の生命や風土、気象や天空へもどって行って
無限にめぐり、循環を繰り返してしてゆくのなら
それはつまり、みんな、なんでも不滅だということだ
生まれ変わる、というのは、そういうことだったのか
それなら、死ぬことも、生まれることも、生きることも
すべてが、陽に光って流れる川のように思えてきて
なんだか、ひとりで
ほほえんでしまう。

■2007/12/17 (月) 石野見幸の歌

You've got a friend 「ひとりのともだち」

Lyrics and Music: Carole King 詩と音楽:キャロル・キング  
【In memory of Miyuki Ishino (石野見幸)】    訳:山田リオ

あなたが落ち込んだとき、苦しいとき
やさしくしてほしいとき
なにもかも、うまくいかないとき
目を閉じて、わたしのことを思って
わたしは、すぐに行くからね
あなたの真っ暗な夜を、明るくするために

ただ、声に出して、わたしの名を呼んで
わたしは、どこにいても
走ってあなたに逢いに行くから
冬でも、春でも、夏でも、秋でも
ただ、呼ぶだけ
そうすれば、すぐに行くからね
あなたには、ひとり、ともだちがいるんだから

もしも、あなたの上にある空が
暗くなって、雲でいっぱいになって
そして、北風が吹き始めたら
あわてずに、よく考えて
私の名を、大声で呼んで
そうすれば、すぐにあなたのドアをノックするから

ひとり、ともだちがいてよかった、そう思って
みんなが、とても冷たくて
みんなが、あなたを傷つけ、去って行き
ついでに、あなたの魂さえも、奪って行くかもしれない
でも、あいつらに、そんなことさせちゃいけない

ただ、声に出して、わたしの名を呼んで
わたしは、どこにいても
走ってあなたに逢いに行くから
冬でも、春でも、夏でも、秋でも
ただ、呼ぶだけ
そうすれば、すぐに行くからね
あなたには、ひとり、ともだちがいるんだから

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■2007/12/09 (日) 海流

「海流」
                        山田リオ
琥珀色にすきとおる蝉の抜け殻は
ほとんど重さもないに等しく
握れば、手の中で粉々に砕ける
かってその中にいたはずのいのちは
もうすでにどこかへ行ってしまったから
これを、抜け殻と呼ぶのだけれど
この軽さ、半透明さ、たよりなさこそ
いのちそのものではないのか
枝をはなれたレモン色のポプラの枯葉も
もういまは、軽くなって風に踊っている
いのちのない抜け殻であるはずなのに
この軽さ、半透明さ、たよりなさこそ
いのちそのものではないのか

あのころわたしは
入り江を見下ろす家に住んでいた
秋の終わりの灰色の厚い雲が空いっぱいで
来る日も来る日もこまかい雨が降っていた
入り江は、鈍色に光る外海へとつながっていて
そういう小雨の降る夜更けに
それは外海のほうから入り江を通ってやってきた
それは、窓の外に立ち
人間の言葉には翻訳できない言葉で
ひそやかに、夜通しささやきつづけた

夜が明けると
抜け殻は、ねっとりとした海面を
かすかな風によって流され
入り江を横切り
灰色の雲の下、外海へと向かう
群青色の海水のなかに、ひとすじの暗緑色の流れがあって
そのゆったりとした流れは、やがてうねりとなり
軽い、半透明な、たよりないいのちを
その巨きな背に乗せたまま
大きく、高く、深くうねりながら
確信を持って、ある方向へ運んでゆく

厚い雲の切れ間から
一筋の光が、天空から海面へとまっすぐに
そのとき、抜け殻は光を受けてすきとおり、きらめく
それは、いのちそのものなのか
あるいは、ただの抜け殻にすぎないのか
それでも、暗緑色の海流はなおも大きくゆったりとうねりながら
それを、巨きな背に乗せたまま
大きく、高く、深くうねりながら
確信を持って、ある方向へ運んでゆく
  

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■2007/12/03 (月) 露けさのひとつの灯さえ消えにけり

ほんとうに申し訳ありません。もうひとつ間違いを発見しました。
万太郎の作と思いこんでいた、

露けさのひとつの灯さえ消えにけり

という句は、実は岡本松浜(しょうひん)の句でした。
うろおぼえで引用などするものではありませんね。
まことに恥ずかしいことです。
まるで、能の「忠度」、「青葉の笛」、そのままです。
汗顔の至り。松浜先生が現れて、恨み言を言われてもしかたありません。
お詫び申し上げます。合掌。

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露けさのひとつの灯さえ消えにけり

褄(つま)とれば片手に重し傘の雪

やすらへば手の冷たさや花の中         岡本松浜


■2007/12/03 (月) 雪中庵十二世、益田龍雨

とんだ勘違いをしていたことに気が付きました。
万太郎の一中節を掲載して、その流れで俳句も、と思って俳本を見ていたら、

「繭玉の霞むと見えて雪催い」(まゆだまのかすむとみえてゆきもよい)

とあって、「雪中庵十二世、益田龍雨」、とありました。
万太郎と思いこんでいた好きな句は、実は、龍雨の作でありました。
実に申し訳ないことをしてしまいました。合掌。

龍雨を検索しても、ほとんど出てきませんね。
龍雨で思い出すのは、寄席の句です。
落語家のみなさん、なんとかなりませんか?
マスコミが無視するものは、自動的にこの世から消え去ってしまう、というのであれば、ネットが存在する意味がなくなります。
江戸最後の俳人、龍雨が忘れ去られてしまうのは、あまりにも悲しいことです。
かく言うわたくしも、龍雨を忘れかけていた一人ですが。

龍雨、万太郎の句を併せて掲載します。    山田

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講釈場すくなくなりし袷(あわせ)かな     

叉一つ寄席なくなりし夜寒かな

一生を前座で通す夜長かな

死ぬことも考へてゐる日向ぼこ

春の灯や立花亭の雪の傘

繭玉(まゆだま)の霞むと見えて雪催い(ゆきもよい)     益田龍雨

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短夜(みじかよ)のあけゆく水の匂いかな

神田川祭りの中をながれけり

枯野はも縁の下までつづきおり

雪掻いている音ありしねざめかな

ほとほととくれゆく雪の夕(ゆうべ)かな
 
まゆ玉にさめてふたたび眠りけり

死んでゆくものうらやまし冬ごもり

何か世のはかなき夏のひかりかな       久保田万太郎