2011年9月24日土曜日

彼岸花

                山田リオ
彼岸花が咲いている
そこに立ち、花を見おろす人
その顔に、地に咲く花の色が反映して
喉や顎、鼻腔のあたりに
やわらかい赤橙の光が
その人を見あげる彼岸花が
顔の凹凸をうっすらと照らすとき
背後に見える空はもう暮れかけて
どんどん青く黒くなって行く
足もとの花からさして来る光だけが
その貌を紅く照らして
さまざまな思いも
彼岸花が、あたり一面に
広がり、咲いていたことも
なにもかも忘れてしまって
今はただ、薄闇のなか
赤橙の夕映えだけが
立ち尽くす人の顔の上で
ゆっくりと衰え
死に絶えていく
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2011年9月23日金曜日

風船画伯

風船画伯は内田百閒(ひゃっけん)の挿絵を描いていた版画家だった。谷中安規という。
百閒はずいぶん彼の版画を愛したようだ。

古本屋で、一ドルの古本を買った。ドイツ文学者の池内紀という人の随筆集だ。
そのなかに、偶然、谷中安規の死について書いたものを見つけた。
それは、淡々とした、しかし深い悲しみに満ちた文だった。

終戦直後、風船画伯は、世間から忘れられ、ホームレスになり、食うものもなくて栄養失調になり、釘のように痩せた後に、足も目もむくんで死んでいったという。

ぼくもある時期、病気のせいで顔のむくみがずいぶん酷くなってきていたから、風船画伯の死のありさまを読んで、他人事とは思えなかった。

百閒先生に発見されてから、風船画伯はたくさんの版画を残した。
友人だった棟方志巧とは違って、亡くなったあとも無名のままだった。
今は、少しは評価されているのだろうか。

でも、あの百鬼園という独歩の人に愛されたのだから、マスコミにもてはやされ、百万人に人気を博すよりも、ある意味、満足な一生だったのではないか。
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2011年9月20日火曜日

ダウントン・アビーその後

一昨日、「ダウントン・アビー」がエミー賞で、作品賞、脚本賞、監督賞、助演女優賞を受賞しました。製作部門を独占でしたね。
脚本賞は、ジュリアン・フェロウズ、監督賞はブライアン・パースィヴァル、そして助演女優賞は、あのマギー・スミスでした。
ダウントン・アビーは、主役のないアンサンブル劇なので、すべての役が主役だ、とぼくは思っているのです。だから、助演の受賞で十分です。全員に助演賞をあげたいところです。
おめでとうございました!    やまだ
「ダウントン・アビー」についての記事は、今のところ全部で六つです。ブログ右側の「ラベル」の「ダウントン・アビー」をクリックすると、全部一度に読めます。

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ジャカランダの実

六月に紫の花をいっぱいつけていたジャカランダは、いまは実がなっています。
高いところには、たくさんなっていても、
なかなか落ちてきません。
毎日、通るたびに探していて、
やっと、今朝早く、一個ありました。

皿に置いてみると、ラムチョップ、
子羊の焼肉にも見えます。


 
 そう。二枚貝です。
あこや貝。真珠貝。
開いてみるとこんなです。
まるで貝殻ですね。
種が見えますか?
下のほう、二個、
種を殻から出してみました。

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2011年9月17日土曜日

びっくり。

夕方、窓から外を見ていたら、遠くの木にリスの影が。。
そういえば食事の時間だ。
というわけで、アーモンドを持って外に出た。
見渡しても、どこにもいない。
垣根の上に両肘を置いて、
「ちっちっち」と呼んでみた。
しばらくして、突然、なにか毛深いものがぼくの身体を登ってくる。
足からわき腹を通って、わきの下から首のところをぬけて、
数センチの距離で、眼と眼を見つめあう。
アーモンドを二つ、口に入れると、
あっという間に、オレンジの木の上に消えた。
なれなれしさと、野生。
理想的な隣人だ。

2011年9月12日月曜日

茉莉花忌


                                           山田リオ
また九月11日がめぐってきて、松本よし子さんのことを思い出します。
毎日の生活のなかで、忘れないと思っていた人のことを、気が付いたら忘れてしまっていた。
こういう日が来て、やっと思い出す、大切な友達のこと。
2006年に書いた「友よ」を、あらためて掲載します。

あのころ、ぼくたちはニューヨークに住んでいたので、あそこで働いていた知人友人も多かったのです。

あの日、亡くなった方は2977人。
その約88%がアメリカ国籍の人たち、そして約12%が外国籍の人たちで、それは合計九十カ国以上になります。
すべては書ききれないが、少しだけ拾ってみます。

イギリス、67人。ドミニカ、47人、インド、41人、韓国、28人、日本、24人。カナダ、24人、コロンビア、17人、フィリピン、16人、ジャマイカ、16人。メキシコ、16人。トリニダード・トバゴ、14人。オーストラリア、11人。ドイツ、11人。イタリア、10人。パキスタン、8人。アイルランド、6人。バングラデシュ、6人。ポーランド、6人、イスラエル、5人。ペルー、5人、そしてポルトガルは5人の方たちが亡くなりました。

4人以下の被害の国々は、アルゼンチン、べラルース、ベルギー、ブラジル、チリ、中国、コートジヴォアール、コンゴ、エル・サルヴァドル、エクアドル、エチオピア、フランス、ガーナ、ガイアナ、ハイチ、ホンデュラス、インドネシア、ヨルダン、レバノン、リトアニア、マレーシア、モルドヴァ、オランダ、ニュージーランド、ナイジェリア、ルーマニア、ロシア、南アフリカ、スペイン、スエーデン、スイス、台湾、ウクライナ、ウズベキスタン、バミューダ、ヴェネズエラ、などの国々でした。

合掌。

『友よ』(第一回) 再録

■2006/12/17 (日) 友よ                   山田リオ
九月十一日の朝、机に向かって何か書き物をしていたら、電話が鳴った。
会社にいる妻からで、「窓の外、見て。テレビつけて」彼女はそう言った。
窓から見ると、ダウンタウンのほう、国際貿易センターのあたりから黒煙が高く空に昇っている。テレビをつけると、そこには映画のような光景が映っていた。
国際貿易センターで働いている数人の友達に電話したが、誰にもつながらなかった。


数 日後にやっとわかったのだが、このやろ女史は十日の深夜に友人が空港に着き、眠ったのが三時すぎになって寝過ごしてしまった。それで地下鉄で貿易セン ターにある会社に向かったのだが、マンハッタンで地下鉄が止まり、道路も通行止めで、8時間歩いてブルックリン橋を渡って家に帰った。いつもなら、このや ろ女史は朝八時に出勤だったはずだから、間違いなく事件にまきこまれただろう。
松本よし子さんは、九時出勤だったが、貿易センターの前の朝市で花を買っていたそうだ。そしてその時、あの事件が起こった。空から人が降って来た。
看護婦であるよし子さんも、どうすることもできなかった。


それから一年ほどしてから、あの事件で命が助かった松本よし子さんの癌が再発した。
それまで、よし子さん自身が癌の生還者だったので、彼女は個人的にニューヨークに住む日本人、とくに女性で、乳ガンや子宮ガンの患者や生還者の相互支援グループを作って、ミーティングをしたり、訪問したり、よし子さんは、それだけでも寝る時間もないほどだった。
それ以外にも、日本人が性交渉でエイズ感染する、あるいは麻薬使用者が注射器が原因でエイズや肝炎に感染するケースが多発していた、それもよし子さんは一人で駆け回って若い日本人との連絡網を作り、相談相手になっていた。
また、日本人女性が家庭内暴力を受ける、それは相手の男性が日本人に限らず、どんな国の人の場合でも起こっている問題で、そういう女性の相談を松本よし子さんは朝でも夜中でも引き受けていた。
よし子さんが倒れれば、そういう支援組織がすべて止まってしまう。(つづく)

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『友よ』(第二回) (再録)

■2006/12/17 (日) 友よ(2)                   山田リオ
よし子さんは、週のうち一日だけ、日曜日だけは彼女自身と、アメリカ人の画家であるご主人のためにあけてあった。
だから、ぼくら夫婦は彼らの山の家に週末泊まりに行ったり、いっしょにテニスのダブルスをやったりしていた。
ふだんのよし子さんは、インチキな関西弁を駆使する、おかしなおばさんだった。落語が好きだった。

彼女の癌が悪化した時、ぼくらはもうカリフォルニアに引っ越した後だったが、よし子さんは自分の病状をすべて把握していた。
「病院で死にたくないからね。私はこの家で死ぬのがいいから、そうする。」電話で、よし子さんはそう言った。
末期で苦しんでいるときでも、よし子さんは電話をしてくれて、長話をした。
それから、亡くなったあとの、支援組織との連絡なども、指示した。
そうやって、松本よし子さんは、四十台の若さで旅立って行った。

よし子さんは、子供はいなかった。
自分自身やご主人のことよりも、無数にいる他人のことを大切にしたのが、よし子さんという人だった。
自分が末期癌で痛みに苦しんでいるときも、よし子さんは癌生還者グループやエイズの若者、家庭内暴力の被害者女性、そういうみんなのことばかり、いつも心配していたのだ。
よし子さんにとって、苦しんでいる者はすべて、よし子さんの子供のように大切な人だったのだろうと思う。
わたしは、松本よし子さん以外に、そういう人を知らない。

そういう人がいたことを書いておきたいと思ったので、書きました。(つづく)

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2011年9月10日土曜日

ダウントン・アビー

 (2011年9月20日にも関連記事があります)

            山田リオ

英国の大河(?)ドラマ、Downton Abbey  (ダウントン・アビー)ダウントン修道院という意味ですが、実際は巨大なダウントン城。その城に住むたくさんの人々の人生を描いた連続テレビドラマです。一年目が終わり、九月から英国で二年目のシーズンが始まります。
(これから書くのは、ぼくの感想で、批評ではありません)

ぼくは現在、完全にはまっています。
アメリカではPBSが放送しているので、録画しておいて何度もくりかえし見て、さらに英国で放送された版のDVDも買いました。こっちのはアメリカ版よりかなり長くて、細部が丁寧です。
細かい説明は避けますが、何度見ても、また見たくなるのには困ります。

大まかな主役グループみたいなものは、あるようで、ないようで、主役も脇役もない、と言ったほうが正しいと思います。
一見小さな役に見えても、登場人物の数だけ、たくさんの物語りがあるということです。
見る人は、貴族も、平民も、召使も、さまざまな人々の内面までを、しっかりと細部まで目撃し、何度でも噛み締めることができる。そういうドラマになっています。ぼくとしては、あたらしい映画「ジェーン・エア」とあわせて見ることをお勧めします。

このドラマの作家で、プロデューサーのジュリアン・フェロウズがテレビのインタビューで言った言葉を引用(直訳)します。

『1912年は、とてつもなく興味深い時代だと思う。なぜなら、近代社会が始まろうとしていて、自動車はすでにあり、電話と電気が広がっていく、女性に対する社会の見方が変わり始める。
もし、そういう細部を正しく表現できれば、もちろん(現代の)多くの人が、その細部自体を知らなくてもいいのだ。(細部を正しく表現できれば)このドラマ全体が、言わば「信じられる」ものになる。そして見る人はこう思う、「ああ、そうか。こういう生きかたもあったんだな。」』

日本では、まだDVDが出ていないんですが、ぼくの勝手な憶測では、このドラマは、「絵面」では、大人向けの、難しいドラマに見えるようなので、若者志向の強い、配給関係の偉いおじさまたちは敬遠するんでしょう。

でも実際は、ダウントン・アビーは世界的人気になってきていて、とくにヨーロッパとアメリカ大陸ではブームが始まっています。
支持層は女性が多いような気がしますが。女性に限らず、男性にも、そして広い年齢層に、根強い人気があると思います。

ぼくも、時間さえ許せば、毎日でも見ちゃう。何度見てもどきどきする。
「あのシーン、もう一回見よう」そういう見方もできる。非常に困る。危険なテレビドラマですが、おかげで人生が豊かになりました。

ひとつだけ言いたいことは、このドラマでは、「あらすじ」は無意味だということ。
フェロウズ氏が言うとおり、細部を楽しむことができる人、一人一人の人間の内面に興味を持つことができる人にとって、ダウントン・アビーは、すばらしいワインです。

しかし、日本語字幕をどうするのか、というのが心配なところですが。
なにしろ1900年代初めごろの英国貴族の英語、非常に丁寧で繊細な、言わば文学的な言い回しがいっぱいです。そして庶民の英語も当然あります、
一方で、字幕翻訳には、長さの制限があります。しかし、このドラマに限っては、ハリウッド映画の字幕のような「現代簡略日本語スラング」を使うと、大変に妙なことになります。
でも、画面の広さにも、時間にも限りがある。うーん。どうなりますか。

ちょっとだけ、直訳してみます。貴族の若い女性と、やや身分の劣る若い男性がワインを飲んでいる場面です。雰囲気が伝わるといいのですが。。直訳ですので悪しからず。
(ヴィデオを見ながらの聞き書きなので、自信がありませんが)
Lが女性、Mは男性です。

(夜、ダイニング・ルーム。二人が、テーブルでワインを楽しんでいる)
L 「あなたは、物事の礼儀について、うるさくありません?ちがいます?」
M 「あなたはどうなんです?」
L 「あなたが思われるほどでもありませんわ・・・ 
スィビルを救ってくださってありがとう。とても勇敢なのですね。
あなたが、あの男を殴り倒した、と聞きました」
M 「義務を果たせたのなら、よかったです」
L 「あはたは義務に従う生き物なのですか?」 
M 「完全にそうだとは言えません」
L 「あなたがわたくしといっしょに、笑ったり、ふざけたりしていらっしゃる時も、あなたは義務を果たしているわけですか?慣習に従って、世間から期待されることを、そのまま行っているわけですね」
M 「わたしを遊び道具にするのはおやめなさい。わたしが何をしました?あなたに言われたくはありません」
L 「スィビルを傷つけたら、許しませんわよ。彼女は、あなたを好きになり始めているんですから」
M 「あなたがそういうことになる(人を好きになる)とは、誰ひとり思わないでしょうね」
L 「それはわかりませんわ」
M 「あなたの言うことすべてに、からかいの響きがあります」
L 「ご自分に自信を持たれたほうがよろしいと思いますわ」
M 「思い出させてさしあげましょうか。わたしがここに初めて来た日、あなたはわたしを形容して、非常に選び抜かれた(つまり残酷な)言葉を使われました。
あの言葉は私の記憶の中に、あなたが言われた、あの日そのままに、今でも、鮮やかに生きているのです」
L 「何度も申し上げましたでしょう?私の申し上げることを、本気になさってはいけませんわ」(キスする) 
 
「ダウントン・アビー」(シーズン1~4)についての記事は、今のところ全部で六つです。ブログ右側の「ラベル」の「ダウントン・アビー」をクリックすると、全部一度に読めます。
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2011年9月4日日曜日

イランのシャツ

 
これは、木綿のシャツです。
レーベルが分からない言葉なので読んでもらったら、イラン製ということでした。古着屋で、一目で気に入って、買いました。もちろん手織りです。色の具合も、肌触りのやわらかさも、申し分のないシャツです。でも、気が付けば、なにか食べ物のしみが付いていますね。責任者は、ぼくです。 

今住んでいる国は、移民の国なので、世界中のさまざまな国から来た人に出会います。
イスラム世界から来た人とも、知り合う機会があります。ニューヨーク時代に親しかった羅紗戸さんは、レバノンから来た人でした。

この街に来て、イラン人の健さんとの出会いがありました。
健さんは、奥さんと小さかった娘さんを連れて、イランから日本に来ました。
日本で十年働いて、娘さんが小学校六年生のときにビザの更新ができなくなり、一家で日本を出て、アメリカに来ました。娘さんは日本で育ち、すっかり日本の子になっていたので、ずいぶん悲しんだそうです。健さん一家は、住みなれた日本を離れ、新しい土地で、また一から始めるしかありませんでした。

初めて健さんと会ったとき、彼の日本語が上手なのに驚きました。
電話で話していると、完全に日本人です。
「そうですね。わたしの好物は、やっぱり今でも、カツどんと、カレーパンですね」
などと言います。
彼の人生には困難もありましたが、健さんは、今では、すっかりアメリカにも慣れて、小さな会社を経営しています。娘さんも、もうすぐ大学生です。
今でも一家三人で、日本食を食べに行くのが、健さんの楽しみです。Copyright ©2011RioYamada