2013年5月24日金曜日

晩年 5/25/2013

晩年  5/25/2013
          

 
            山田リオ

今、あなたに語ろうとしているのは
遠い昔に終わってしまった、
今はとっくに忘れられてしまった、
あの国の あの時代が終わろうとしていたとき
そのロウソクの芯が燃え尽き
, まさに消えようとする瞬間に
明滅する細い炎のような音楽のことなのですが

そこにいるあなた、あなたなら
ぼくがどの音楽のことを言っているのか、わかるでしょう?

若かったあの頃から、くりかえし聞いてきた、あの音楽
それは漠然とした、ある時代にありがちだった
ある種の一般的な音楽のことを言っているのではありません

あの人が残し、そして、あの数人の演奏家だけが再現することができた
そして、あの人たちが立ち去ったあとには
この世界では誰も演奏することさえなくなってしまった
今は、作曲者の名前すら、大多数の人たちに忘れ去られてしまった
あの曲のことです

あの頃、初めて、その曲を聞いたときに覚えた
ある、言葉にできない、あの「感じ」を、もう一度、味わうために
一人のとき、特別なときに、そっと聞いたあの曲の、あの楽章
ずっとその「感じ」を掴もうと、追いかけていたのだけれど
いつも、指の間をすりぬけて行った、あの「感じ」

今朝、またあの曲を聴いていて
一生で初めて、あの「感じ」にあてはまる
ある言葉がうかんできたのですが
その言葉は、たとえあなたにも
だれにも言わないまま、逝こうと思います

なぜって、みんなにそれを言うのは無意味だし
第一、音楽を言葉で言うことは 間違っているし
それは、不遜なことじゃないかと思いますから
だから今は、あの作曲者と演奏家たちにだけ聞こえる声で
こっそり、今朝うかんだ、あの言葉を伝えようと思います。
それを伝えたら、きっとあの人は
タバコの煙に霞んだ広間の遠くのほうからぼくを見て
苦笑してくれるような気がするのです
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2013年5月5日日曜日

卒業    


mimosa
           山田リオ

痛い
苦しい
辛い
心配でしょうがない

そういうものはすべて
わたしが生きている証拠

そういうものが
きれいになくなるとき
わたしは生きることを卒業します
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2013年4月12日金曜日

生々流転

■2007/12/28 (金)

                      山田リオ
テレビで福岡伸一さんの対談を聞いていて
それは、きちんと書き取っていなかったのだが
聞きながら、「生々流転」という言葉を考えていた
福岡さんの話では、人間の肉体というものは
ガスのようなもので、常に入れ替わっているという
肉も骨も内臓も脳も血管も
身体のすべての細胞そのものも、内容も、すべてが
今日食べた物の分子と絶えず入れ替わっていて
それはたぶん、川や雲や風や海がそうであるように
私たちの肉体もまた、絶えず流れているのだという
だから、一年たてば、一人の人の身体は
一年前の、あの身体とは全く別の分子や粒子で出来ていて
そしてなおも、絶えず新しい分子が流れこみ、受け入れ
古い肉体の構成要素を排泄しながら絶えず自身を革新し
排泄されたものは、また別の生命体の、または無生物の
構成要素として入れ替わり、流れていくという
ガスのように流れている粒子の、その一瞬が、たまたま
一人の人の生だ、というのが現代の科学の結論だというのなら
大昔の無知な人が思っていた命とは、生々流転とは
古いけれど、同時に、無知どころか
おそろしく進歩的で、かつ真理だったわけだ

その思いは、わたしをすっかり安心させた
そうか、なるほど
わたしの肉体が生きている間も、そして死んだあとも
わたしを構成するすべての粒子は自然に帰って行っているわけで
わたしがいなくなっても、わたしの身体の分子や粒子は
バクテリア、菌類、ミミズ、昆虫、鳥、樹、草、雨、風、川、海
そういうわたしの好きな自然界のなかまの一部になって
無数の生命や風土、気象や天空へもどって行って
無限にめぐり、循環を繰り返してしてゆくのなら
それはつまり、みんな、なんでも不滅だということだ
生まれ変わる、というのは、そういうことだったのか
それなら、死ぬことも、生まれることも、生きることも
すべてが、陽に光って流れる川のように思えてきて
なんだか、ひとりで
ほほえんでしまう。


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2013年3月28日木曜日

初めてのジャスミン

2006/12/03 (日) 初めてのジャスミン

”The First Jasmines” by Rabindranath Tagore

「初めてのジャスミン」(詩集「三日月」より)
ラビンドラナート・タゴール(1861~1941、インド)訳:山田リオ

ああ、ジャスミン、このジャスミンの白い花を
初めて、両手いっぱいに抱えたあの日を思い出す
ジャスミン、このジャスミンの白い花

わたしは愛していた
陽光と空と緑の地球を
真夜中の暗闇のむこうからくる
川の水音を聞いていた
秋の夕日は、淋しい荒地の道の曲がり角から
わたしのほうにやってきた
花嫁がヴェールをそっと持ち上げて
恋人を迎えるように
でも私の記憶は、今でも甘く香っている
子供だったわたしが
あのとき、両手いっぱいに抱えていた
あの、初めての白いジャスミンの花

私の人生にも、たくさんの喜びの日々が訪れた
祭りの日には、みんなといっしょに騒ぎ、笑った

雨が降る灰色の朝には
無意味な歌を、いくつも小声で歌った

愛の手が編んでくれた
夕暮れのバクラスの花輪を
わたしは首にかけた

でも私の記憶は、今でも甘く香っている
子供だったわたしが
あのとき、両手いっぱいに抱えていた
あの、初めての白いジャスミンの花

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2013年3月16日土曜日

霧の朝



© rio yamada
© rio yamada


朝起きたら、霧でした

いつもの山に登っていっても

ずっと霧
© rio yamada













ところが頂上近くまで登ったところで

霧の上に出ました

ここは晴れています

霧は谷を満たしています


2013年3月13日水曜日

八木重吉 ①


窓をあけて雨をみていると
なんにも要らないから
こうしておだやかなきもちでいたいとおもう 

               八木重吉(1898-1927)

2013年3月10日日曜日

速報

これが今朝の写真。尻尾がこんなです・・

永い間、姿をみせなかった、
うちのリス、アマンダ・レモンツリーさんが、
帰ってきました。
猫に食べられたかと心配していましたが、
暖かくなったと思っていたら、
今朝、無事、ご帰還でした。
相変わらず、元気です。

どうして彼女だとわかるかというと、
まず、異常になれなれしい行動。
勝手に家の中まで入ってくる、
身体に登ってくる、
そういうリスは、ほかにいません。

それに、誰かに尻尾を食いちぎられたらしく、
尻尾が短いのです。

今も、網戸をがりがり引っかいて、
アーモンドをくれろ、と要求しています。
                         山田

以前の記事: 詩日記: 毎朝の訪問者

2013年2月24日日曜日

ダウントン・アビー三年目が終わった


 
またしつこく言いますが。
xxxx。
あの人とあの人は、できればxxくらいまではxxxxxx、
と、思うともなく、そう思っていたxxx、xxxxxxxxxx。

そりゃ、現実の世界でも、xxxxとか言うけれど、
xも、 yも、 zも、
xxxxxxxxxxxxx。しかし! 召使のトーマスくん、オブライアン女史なんかは、
xxxxxxxxx、相変わらず暗躍しているじゃないか。
それが現実よ、と言われれば、そうなんだけど。

これを書いているジュリアン・フェロウズの革命的というか、
勇気だか蛮勇だかは、認めるけれど。
まあ、ハリウッド映画だったら、絶対やりませんね、
こういうこと・・・

でもなにしろ、全員が主役で、全員が脇役というダウントンですから、
これからも、たくさんの人たちが、それぞれの物語を紡いでいくのでありましょー。
それはそれ、今は考えたくもない、というのが、見終わった現在の気持ちです。

とりあえず、茫然自失、といいますか。
しかしここは、気をとりなおして、今すぐ出かけて行って、
ジュリアン・フェロウズに面と向かって言いたい。
「ロード・フェロウズ!xxxxxxx,xxxxxxx,xxxx!」

 Copyright © 2013Rio Yamada 「ダウントン・アビー」についての記事は、今のところ全部で六つです。ブログ右側の「ラベル」の「ダウントン・アビー」をクリックすると、全部一度に読めます。

2013年2月18日月曜日

笹井 宏之






廃品になってはじめて本当の空を映せるのだね、テレビは

初めての草むらで眼を丸くして何かを思い出している猫

時計から兎の駆けてゆくやうな気配がしても誰にも言ふな

六月の雨が両手を伝ひつつわが深層へ雫するのだ

ひとときの出会ひのために購ひし切符をゆるく握りしめたり

なんといふしづかな呼吸なのだろう 蛍の群れにおほはれる川

白砂をひかりのような船がゆき なんてしずかな私だろうか

気のふれたひとの笑顔がこの世界最後の島であるということ

顔をあらふときに気づきぬ吾のなかに無数の銀河散らばることを

さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから

あをぞらの青が失はれてしまふ汝を抱きしめてゐるあひだにも

落花生食む度に落つ甘皮に人の残せるは何ぞと問ふ            

ひとが死ぬニュースばかりの真昼間の私はついにからっぽの舟

おそらくはあなたにふれていたのです 浜昼顔の眠りのなかで

夕立におかされてゆくかなしみのなんてきれいな郵便ポスト

太陽の死をおもふとき我が生は微かな風を纏ふカーテン 

ほんとうにわたしは死ぬのでしょうか、と問えば杉並区をわたる風

あなたとの日々をゆっくりOFFにしてそれきり電池切れのリモコン

祝祭のしずかなおわり ひとはみな脆いうつわであるということ

百年を経てもきちんとひらきますように この永年草詩篇



                                          笹井 宏之(1982-2009

                                                             

2013年2月4日月曜日

白木蓮(はくれん) 吉野秀雄


 

白木蓮の花の千万青空に白さ刻みてしづもりにけり


青空の染めむばかりの濃き藍に皓さ磨けり白木蓮の花     (皓さ←しろさ)


しろたへの白木蓮空にまかがよひ地には影しつ花さながらに


                    吉野秀雄(1902-1967}

 

2013年1月25日金曜日

雨よ



砂漠に住んでいると、雨は貴重です。
いつも気が付けば、「雨にならないかなあ」と、
言葉に出さなくても、そういうふうに思っている自分がいます。

「夜の雨」を再掲載したら、すぐに雨になりました。
不思議。
おとといの夜から降り出して、今日で三日目の雨です。

もう十一年間、この詩日記を読んでくださっているみなさん、
十一年も、一緒にいてくださって、ほんとうにありがとうございます。     山田

2013年1月22日火曜日

夜の雨、死刑、彼岸 再録



■2004/11/22 ()
                   山田リオ

電気の消えた部屋の
窓の外からは
雨の降る音が聞こえてくる
あたたかいベッドの中に横たわって
雨の降る音を聞いている
それは
無数の雨粒が
空の高いところから落下してきて
それぞれの粒が
屋根土石植物水家ガラス
いろんなものの上に落ちて
そしてそれぞれが雨粒から
水というかたちに戻る音なのだが

そうやって聞いていると
わたしが
野の獣や鳥になったような気持ちがする
なんとかして濡れないように
暗い夜のなかで
それぞれの場所でうずくまって
生きようと
朝の光を震えながら待っている
朝が来て
まだ生きていれば
夜の間に降ったきれいな水を飲むことだってできる

あたたかいベッドのなかに横たわって
雨の音を聞いていると
いつかホームレスになる日のことを
想像する
ホームレスになったら
やっぱり
野の獣や鳥のように
真っ暗な空を見上げ
とこか安全なやさしい樹木の陰で
雨に濡れてうずくまり
自分を抱きしめながら
朝が来ることを祈るんだろう
そして朝がきたら
木の葉なんかにたまった雨水を飲んで
陽光に光る梢を見上げながら
なにかに
朝まで生きられたことを
感謝するんだろう
  
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■2004/11/19 (金) 死刑
「死刑」
          山田 りお

死刑になるというそのとき
さいごに一本のタバコを吸わせてくれるということを聞いた
死刑になる人は
生きたいという願いはかなえられないが
いまから死ぬんだということを
前もって知ることができる
そしてそれはぜいたくなことなのかも知れない

死刑にならない普通の人は
自分がいつこの世を去って
あちらがわに行くのかということを
知らされずに
毎日を生きていく
今晩眠っている間に逝くのかもしれず
明日の朝に事故や災害で死ぬかもしれず
あと108年間長生きするかも知れないが
それを前もって知ることが許されないので
占い師やサイキックやいろんなものに
みんなはお金を払って
少しでも安心しようとする

わたしの最期のとき
わたしはタバコなんか欲しくない
そのかわり
どこかの山奥の谷川をさかのぼり源泉まで行って
冷たいきれいな湧き水を飲みたいかもしれない

薪と釜で炊いたばかりのあたたかいご飯を
梅干や海苔やちりめん山椒や焼いた塩鮭や明太と
食べたいかもしれない

何十年もの間毎日聴いてそれでも
まだ聴きたりないあの大切な音楽を
もういちど聴きたいかもしれない

林のなかの湿った空気を呼吸し木々の匂いを嗅ぎ
梢をわたる風の音を聞き
波打ち際の濡れた砂の感触を足の裏でたしかめ
海風と汐の匂いを体で吸い込みながら歩き

ああまだまだいくらでも浮かんでくるけれど
そのなかから
たった一つ選ばなければいけないとしたら
それはとてもできないことです
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■2004/11/30 (火) 彼岸
『彼岸』
                      山田 りお

眠りから引き剥がされるようにして
目が覚めたとき
口の中に苦い味が残っていて
自分はバスの座席で眠っていたようだ
バスはからっぽでほかには誰もいなくて
ふらつく足で立ち上がりバスをおりると
そこは六番街の55丁目あたりのようで
白く雪に覆われた道をバスは
セントラル・パークの方向に走り去る
なぜバスを降りてしまったのか
考えてもよくわからなくて
道に積もった粉砂糖よりも細かい雪が
風に吹き上げられて渦をまいているほかは
人っ子一人いないし車もまるで通らない
日暮れのような夜明け前のような薄明かりの中で
寒さに震えて立ち尽くしている
いくら待ってもバスはもう来ない
この道を歩き続けても家に帰れるとは思えない
どっちの方向に自分の家があるのか
いくら考えてもわからない
ああもしかしたらこれは
夢なのかもしれない
目の前には大きな大きな川があるようで
これはきっとあのハドソン河だと思う
真冬だから河には白い流氷が溢れていて
氷の隙間には真っ黒な冬の水も流れていて
この流氷の上を歩いていったら
無事に向こう岸に着けるような気がする
ああそうだこれが「彼岸」という言葉の意味なのだと
心の中で納得して揺れる氷の塊を踏みしめ
風が強く雪も激しく前がよく見えないのだが
一歩一歩少しずつ進んでゆくのだ
気がつけば自分の前を
自分と同じような海兵隊の防寒コートを着た男が
同じようにうつむいて
氷の上を一歩ずつ歩いて行くのが
雪のむこうにうっすらと見えて
その背中がなんとも言えずなつかしくて
涙がこぼれるような気持ちがするまもなく
もう熱い涙が頬を流れて
ああこのなつかしさを「サウダージ」と言うのだった
お父さんその背中は遠い昔ぼくを捨てて行った
ぼくのお父さんですね
風にゆれるこの流氷の上で
あなたの背中しか見えないけれど
会ったことがなく顔を知らないけれど
その吹雪に霞む背中とこのサウダージそれは
まぎれもなくあなただという証拠です
逃げることはありませんよお父さん
ぼくはあなたを恨んだこともないし
とっくの昔にあなたを許しているんですから
ぼくはただ
あなたのとなりにほんのすこしの間
座っていたかっただけなんです
ただ
それだけのことなんです
ほんとうです

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