いくとせも鏡のなかを歩みゐる我とけふまた目を合はせけり
笹井宏之 (1982~2009)
| rio yamada photo |
山田リオ
朝起きたら
300年前に生きた あの ドイツの作曲家の音楽を聴く
夕方 ワインを飲みながら
60年前に亡くなった あの 南米の音楽家の曲を聴く
音楽が作り出された その時に だれかが聴いた その音楽と
ながい永い時間がたった今 聴く その音楽は
同じなのか 違うのか
時を経て 人間が生み出したものは 変わるのか
いや そんなこと どうでもいい
今 ここに 生きていて この耳と この心で聴いている
このわたし 一人に それが どう響くのか
他人が呑んだ ワインの味なんか どうでもいい
わたしが呑んで そのときの わたしが
わたしの 鼻と 舌と 喉と 心とが感じること・・
いや もういいよ 黙って呑めよ
おまえなあ しゃべりながらじゃ 味なんか わからないぞ
| rio yamada photo |
赤ワイン
不要不急の 赤ワイン
「他人の顔色をうかがいすぎていないか」
それはともかく
元日は なにはともあれ 赤ワイン by 山田
因みに「他人の顔色・・」云々は お年玉で頂いた
養老先生の新刊「ヒトの壁」のキャッチコピー
元日の朝 ガラス越しの日差しが あたたかい
| rio yamada |
Feliz e maravilhoso ano novo para você!
波しろき海の極月来たりけり
これやこの冬三日月の鋭きひかり 鋭き(とき)
久保田万太郎(1889~1963)
今はもう会えない 友人の一人が 言っていた事がある
それは 「大きな幸運に恵まれた人は
一生の間に その幸運に釣り合うだけのprice
つまり 対価 を支払うことになる」という
つまり 幸運と 不運は 一生の中で帳尻が合う
というのだ
そう考えてみると なるほど と思うこともある
幸運ばかりの一生 それを願っては いけないのか?
おい R いたら返事してくれ
吉田健一の「汽車旅の酒」という随筆集の中の「東北本線」という一章に
列車で たまたま隣り合わせた 男との 会話が書かれていて
その男の 話の中で アフリカの ブッシュマンという民族は
土地を 所有する習慣が なかったため
後からやってきた 西洋人に 野生の獣のように 扱われた という
ブッシュマンは 土地を所有することがなく
自然を 荒らしたりすることもなく
自分たちが 自然の一部として 自然を手なずけ
飼い慣らしながら 共に生きているのだという
そういう話を 見ず知らずの男から 聞かされる
その中で 吉田健一は ブッシュマンが住んでいるという
カラハリ砂漠の 夕焼けのことを 書いていて
私は 見たこともない カラハリ砂漠の 夕焼けが
強く 印象に残っている
この本は いつも 目につきやすい場所に 置いてあって
気が向けば ちょっとだけ読んで また そこに戻しておく
つまり 「汽車旅の酒」 の定位置は 本棚ではない
気がつけば 電子書籍の書庫には ずいぶん 「本」が増えた
いくら書籍が増えても 電子書籍は 場所をとらない
海外で出版された本でも あっという間に送信されて 読むことができる
といっても それらの本には 実体がないから 「置き場所」もない
本の表紙に 指先で触れて 紙質を感じたり フォントを 味わったり
本を手に取り その 重みや 厚みを 感じることができない
たしかに 電子書籍に 書かれていることを 読むことはできる
しかし 本棚に並んだ お気に入りの本たちの 背表紙を
順繰りに 眼で愛撫していく そういう 楽しみは ない
読みかけのページに 栞を挟んでおくという よろこびもなく
心に残った部分や 自分が好きな 詩のページに 付箋を貼ることもない
だから 電子書庫をたまに開くとき かすかな虚しさを感じるのは
私だけだろうか 山田リオ
猫の名前は、昔からカタカナで二文字、というのが多いようだ。猫に苗字を与える、ということはほとんど行われていない気がする。しかし、猫には、カタカナの下の名前より、きちんとした苗字をつけることが相応しいように 思われる。夏目漱石の「吾輩」の猫には、名前がなかったようだが、「苦沙弥」、とか、「水島」などという名前をつけても良さそうだ。内田百閒が愛した猫は「ノラ」という名前だったが、これも、やや納得が行かない。百鬼園先生の相棒、「平山」なんていうのもいいし、「甘木」という名字もいい。「甘木、ご飯だよ。」「甘木、仕事中だから邪魔するな。」とか。猫で有名な養老孟司先生が愛した、今は亡き「まる」。この「まる」に苗字を与えるとすれば、奥本大三郎の「奥本」、なんてどうかな。あるいは、南方熊楠の、「南方」は?
あ、これ、本気にしないでね。酔っ払いのたわ言ですからw。