雨の頃の物語
小柳玲子 (1935~2022)
ねえ、きみ
その実、僕に見えているものは殆んどない
きみの永遠などについてはなおのことだ
僕が見たのは
僅かな街の、夕暮れの
と、ある角を曲がって来た
男の、たとえば貧しい帽子
そのうしろにひろがっていく
海のようなもの
ごくとりとめのないもの
見えていない。
地鳴りより深いものは聴けない
僕を、僕は恥じている
僕の猫背の恥の姿勢は
くだもの屋の横で
傘をひろげる
傘が落すわずかな世界の
その仮の安らぎの中に
くるまって 歩く
そこ以外、辿りつく
国はない、と言ったように
ちヾこまって。
降りしきる雨の果に
僕の国はみえない
きみの火のような言葉に
きみのこゝろを聴かない
きみはどこにいますか
僕が一心になって
深い雨の裡に佇つと
きみはいちまいのレインコオトだ
雨よりもけぶっている
それから僕は雨のような、
きみのような、声をきく
「遠いところ!」
僕は傘をひろげていた
僕には見えない
遠いところについて
僕の恥の起源について
考えていた
僕の仮の国の中の
水たまりのようなもの
帽子のようなもの
ごくとりとめのないものをよぎって歩いた
これが雨の頃の
かなり正確な僕の物語だと
そう思ってくれ給え
きみ。
「小さい男」 小柳玲子 朝 名前もつけられない小さな男が一ぴき 私の歯の中から冬の中 に出ていった。彼は歯科医のうがい台の中 その細い管の奥へまぎ れてしまったので 私はわざわざ呼びとめなかった。その後男をみ かけないので この小さい男の物語は終りになった。「顔はどうだ ったか」と友達はきくが――顔があったかどうか思い出せない。そ れに思い出しても一向に役に立たないことを思い出すのは何とも苛 苛するではないか。 もっともある夕方 枕もとの水薬の中 あのうす青いビンの底に あの男がいた「私でしょうが いつかの男は」と彼は自分の鼻を指 しながら言った。だけど私は高熱のため脂汗をしぼって呻いていた ので思わず「バカバカ」と怒鳴ってしまった。おまけに「あんな男 の話は嘘にきまってるだろ」なんて本音を吐いてしまったのだ。
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「見えている部分・いちにち」 小柳玲子
めまいに似た夏の朝
ペチュニアの真紅を植える
街は急に白いビルが多くなり
従妹たちはよく笑う
ホテルのプールは花みたい……
ね? などとはしゃぎあう
角の雑貨屋ばかりが
どうしてだか私には鮮明に見える
店先に忠雄伯父がよく呉れた
デンキ花火が出ている
夜更けて伯父は西の街へ還ったものだ
戦争があって、さらに遠く
永劫の方へ還っていった。
「マシュマロ、買おう」
「あら、ボンボンの方がいヽ」
地下街の仏蘭西菓子店で
従妹たちの
匂うような、レースのような
おしゃべりをきいている
雲が湧き
傾斜はくらいと思う
喉の奥の深い傾斜のことだ
焼けてしまった、あの二階家が
そんな深さに未だ在って
乏しい灯が入ると
兄やわたしや
かぼちゃの皿を囲んだ。
夕食だった。
テレビが海水浴のニュースを始める
みがいたキッチンに佇つと
こんな無益な孤りの果に
単純な夜が落ちてくるのが
不思議だ、と
夏の、さびしい魚たちを
鍋に入れる
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