2013年7月23日火曜日
Mutual
"The feeling is mutual." という言い方がある。
「お互いに、そういう気持ちだよ」というような意味。
たとえば、だれかに告白されたとき、こう答える。
ぼくも、あなたのこと好きだったんだ。
「あのひと、いいなあ」そう思っている相手もまた、
自分のことを同じように思っていた、というわけだ。
そういう人といっしょに過ごす時間のために、
人は生きている。
すくなくとも、ぼくはそう。
だれかに、「おまえなんか、きらいだ。」そう言われたら、
笑って、こう返すこともできる。"The feeling is mutual."
"Mutual admiration society" という言い方もある。
直訳は、「相互あこがれ協会」?「相互敬愛協会」?ですか?
実際には、グループでも、仲間でもない、二人の人間のつながりを表す言葉だ。
たった二人を「協会」と言うところに、ユーモアがこめられている。
"Two is company, three is a crowd"
というイディオムもある。
直訳は、「二人はいっしょ、三人は群衆」。
二人と三人とは、決定的に違う。
三人いれば、それは単なる群衆に過ぎない、というわけだ。
二人と三人。その間には、グランド・キャニオンのような峡谷が横たわる。Copyright ©2013RioYamada
2013年7月21日日曜日
朝臭
朝臭、ではなく浅草にちょいと行ってきました。
まず、煎餅の店、和泉屋の本店が工事中で、
仮店舗のほうで煎餅をたっぷり買い、
そのすぐ隣りの、諸国名産珍味、おつまみなど売ってる、観音通りの熊野屋、
これも昔っからの店で、「焼きくさや」の瓶詰めを買いましたさ。
これだと、焼かないで、頂けるん。
くさやが臭いなんていう、無粋な輩に文句を言われることもなく、
ご近所に気づかれることもなく、ひそかに、くさやを食えるという。
一瓶、1700円也。
これは安い買い物ですぜ。
だって、これ一瓶持って出かければ、
パリ、アカバ、バスク、台北、
どこへ行っても、好きなときに、好きな酒といっしょに、
好きなくさやが食えるってもんで。チンしても、また旨いん。
ちなみに、これ、マルヤ商店、梅田勝さんが作っているという、新島名産青ムロアジの焼きくさや瓶詰め、東京都新島村本村二丁目三番18号、電話番号、04992(5)0025 に注文すれば手に入ります。
そのあとで、浅草で一番好きな天麩羅のXに行きました。
いえ、ここは、だれにも教えないん。
ごくごく、小さい店ですから。
客は近所の商店主とか、地元の人ばっかり。
観光バスも外国からの団体もこないん。
だって、店は数人で満員なんで。
で、ネタが終われば、そこで閉店。
どんな天麩羅かって?それも教えない。
で、さっき帰ってきて、くさやを赤ワインでやったんで。
明日は、レモンサワー。あさっては、うーん、考え中。やっぱり白いご飯ですかね。
ところで、さっきの煎餅屋ですがね。
ここの南京豆が好きでね。塩味ぬき、殻から出した、そのまんまのピーナッツ。
甘皮ごと食う、これです。
これがまた、お酒に合うんで、非常に困っております。 やまだ
落花生食む度に落つ甘皮に人の残せるは何ぞと問ふ 笹井宏之
、
2013年7月3日水曜日
分岐点
■2010/06/01 (火) 山田リオ
歩いてきた道がここから二つにわかれて
そのどちらかを選んでそっちの道を歩いて行く
そういう二者択一の分岐点がある
そこで一つの方向を選んだために
その人の一生がまったく違ってしまうこともある
たとえば気がついたら人を殺してしまったとか
ある人が好きになりその人について行ってしまったとか
何かの加減で住むはずのなかった土地に住んでしまったり
ある日ある時間にある電車にたまたま乗ってしまったことから
とんでもないことになってしまう人生もあって
一つのなにげない選択が決定的な破局へと繋がっていた
そういうことは誰の人生にでも起こりうる
でもあえてそんなことは考えないようにして
とりあえず安心して毎日を生きているわけだが
今日気がついてしまったことがある
それは自分がいまおそろしく複雑な分岐点に立っていて
高いところからわたしの立つ場所を見下ろせば
分岐点から上下左右のみならずあらゆる方向に伸びる
幸福も不幸も悲惨も滑稽も始発も終点もいりまじった
無数の選択肢が四方八方に伸びている
糾える縄のごときインターチェンジに見えるはずだ
選ぼうが選ぶまいが結果として人間は
気がついたらそのなかのたった一つの道を歩くことになる
だから考えても無駄なことはよくわかっているのだが
でもつたない頭で一生懸命考えて希望のありそうな道を選ぼうと
脂汗を流した挙句にまた呆然としてしまうというのもまた
だれにでもあるごく普通のことなのだろう
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猫の一生
山田リオ
家の近所に猫がいる。それは黒っぽい灰色の、つまりドブネズミ色の猫で、
彼はその色のせいで、ずいぶん損をしてきたと思う。
飼い主は、Aさんという独身男性で、めったに家に帰ってこない。
夕暮れ、窓の灯りがついていることが、少ない。
近所の人たちは、この薄汚い猫がAさんの飼い猫だと了解している。
でも、かわいそうだから、ときどき、こっそり、餌をやる。
冬の夜など、あの猫が、近所の家の窓を覗きこんでいることがある。
別の日には、よその家のドアの前で、じっと待っているのを見る。
プライド、とか言っている場合ではない。
彼が、最初から野良猫だったのなら、
自力で生き抜くすべも、身についていただろう。
しかし、彼は、生涯の大部分を、飼い猫として生きて来た。
その甘い育ち方、人間に頼る生き方は、
彼の身体から抜けるはずもない。
ぼくは、その猫に会えば、挨拶もする。
ぼくが散歩に行くとき、前になり、あとになって、
ほんのしばらくの間だけ同行してくれることもある。
ある日、この猫が、突然、
「あんたの家に引っ越して来ることに決めました」
と宣言したのには、当惑した。ドアの前に座り込んで、動かない。
気の毒ではあるが、この子の飼い主は、世話をしないにしろ、Aさんだ。
ぼくが飼うのは、大いに問題がある。
仮に彼が本物のノラだったとしても、
ぼくは、今は、病気のせいで、ペットを飼うことができない。
そのうえ、この子は、遊んでいて興奮すると、
人の手に爪を立てるという悪癖がある。
これは致命的だ。ぼくにとって、感染症は、非常に危険だ。
ドブネズミ色のネコは、塀の上でじっと寝そべっている。
「屈託」という言葉に形と顔を与えると、この猫になる。
明らかに、彼はしあわせではない。
住む家がない。空腹が、夜の寒さが、彼を苦しめる。
そして、何にも増して、彼を愛してくれる人がいない。
飼い主に見捨てられた、このドブネズミ色の猫。
彼は、甘やかされて育ち、そのまま大人になった。
ある日、なにかの事情で状況が変わった結果、
冷たい世間に一人放り出された、そういう人間に似ている。
(後記: この猫は2013年の春に亡くなった。)
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猫
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