"The feeling is mutual." という言い方がある。
「お互いに、そういう気持ちだよ」というような意味。
たとえば、だれかに告白されたとき、こう答える。
ぼくも、あなたのこと好きだったんだ。
「あのひと、いいなあ」そう思っている相手もまた、
自分のことを同じように思っていた、というわけだ。
そういう人といっしょに過ごす時間のために、
人は生きている。
すくなくとも、ぼくはそう。
だれかに、「おまえなんか、きらいだ。」そう言われたら、
笑って、こう返すこともできる。"The feeling is mutual."
"Mutual admiration society" という言い方もある。
直訳は、「相互あこがれ協会」?「相互敬愛協会」?ですか?
実際には、グループでも、仲間でもない、二人の人間のつながりを表す言葉だ。
たった二人を「協会」と言うところに、ユーモアがこめられている。
"Two is company, three is a crowd"
というイディオムもある。
直訳は、「二人はいっしょ、三人は群衆」。
二人と三人とは、決定的に違う。
三人いれば、それは単なる群衆に過ぎない、というわけだ。
二人と三人。その間には、グランド・キャニオンのような峡谷が横たわる。Copyright ©2013RioYamada
朝臭、ではなく浅草にちょいと行ってきました。
まず、煎餅の店、和泉屋の本店が工事中で、
仮店舗のほうで煎餅をたっぷり買い、
そのすぐ隣りの、諸国名産珍味、おつまみなど売ってる、観音通りの熊野屋、
これも昔っからの店で、「焼きくさや」の瓶詰めを買いましたさ。
これだと、焼かないで、頂けるん。
くさやが臭いなんていう、無粋な輩に文句を言われることもなく、
ご近所に気づかれることもなく、ひそかに、くさやを食えるという。
一瓶、1700円也。
これは安い買い物ですぜ。
だって、これ一瓶持って出かければ、
パリ、アカバ、バスク、台北、
どこへ行っても、好きなときに、好きな酒といっしょに、
好きなくさやが食えるってもんで。チンしても、また旨いん。
ちなみに、これ、マルヤ商店、梅田勝さんが作っているという、新島名産青ムロアジの焼きくさや瓶詰め、東京都新島村本村二丁目三番18号、電話番号、04992(5)0025 に注文すれば手に入ります。
そのあとで、浅草で一番好きな天麩羅のXに行きました。
いえ、ここは、だれにも教えないん。
ごくごく、小さい店ですから。
客は近所の商店主とか、地元の人ばっかり。
観光バスも外国からの団体もこないん。
だって、店は数人で満員なんで。
で、ネタが終われば、そこで閉店。
どんな天麩羅かって?それも教えない。
で、さっき帰ってきて、くさやを赤ワインでやったんで。
明日は、レモンサワー。あさっては、うーん、考え中。やっぱり白いご飯ですかね。
ところで、さっきの煎餅屋ですがね。
ここの南京豆が好きでね。塩味ぬき、殻から出した、そのまんまのピーナッツ。
甘皮ごと食う、これです。
これがまた、お酒に合うんで、非常に困っております。 やまだ
落花生食む度に落つ甘皮に人の残せるは何ぞと問ふ 笹井宏之
、
■2010/06/01 (火) 山田リオ
歩いてきた道がここから二つにわかれて
そのどちらかを選んでそっちの道を歩いて行く
そういう二者択一の分岐点がある
そこで一つの方向を選んだために
その人の一生がまったく違ってしまうこともある
たとえば気がついたら人を殺してしまったとか
ある人が好きになりその人について行ってしまったとか
何かの加減で住むはずのなかった土地に住んでしまったり
ある日ある時間にある電車にたまたま乗ってしまったことから
とんでもないことになってしまう人生もあって
一つのなにげない選択が決定的な破局へと繋がっていた
そういうことは誰の人生にでも起こりうる
でもあえてそんなことは考えないようにして
とりあえず安心して毎日を生きているわけだが
今日気がついてしまったことがある
それは自分がいまおそろしく複雑な分岐点に立っていて
高いところからわたしの立つ場所を見下ろせば
分岐点から上下左右のみならずあらゆる方向に伸びる
幸福も不幸も悲惨も滑稽も始発も終点もいりまじった
無数の選択肢が四方八方に伸びている
糾える縄のごときインターチェンジに見えるはずだ
選ぼうが選ぶまいが結果として人間は
気がついたらそのなかのたった一つの道を歩くことになる
だから考えても無駄なことはよくわかっているのだが
でもつたない頭で一生懸命考えて希望のありそうな道を選ぼうと
脂汗を流した挙句にまた呆然としてしまうというのもまた
だれにでもあるごく普通のことなのだろう
Copyright ©2010RioYamada
山田リオ
家の近所に猫がいる。それは黒っぽい灰色の、つまりドブネズミ色の猫で、
彼はその色のせいで、ずいぶん損をしてきたと思う。
飼い主は、Aさんという独身男性で、めったに家に帰ってこない。
夕暮れ、窓の灯りがついていることが、少ない。
近所の人たちは、この薄汚い猫がAさんの飼い猫だと了解している。
でも、かわいそうだから、ときどき、こっそり、餌をやる。
冬の夜など、あの猫が、近所の家の窓を覗きこんでいることがある。別の日には、よその家のドアの前で、じっと待っているのを見る。
プライド、とか言っている場合ではない。彼が、最初から野良猫だったのなら、
自力で生き抜くすべも、身についていただろう。
しかし、彼は、生涯の大部分を、飼い猫として生きて来た。
その甘い育ち方、人間に頼る生き方は、
彼の身体から抜けるはずもない。ぼくは、その猫に会えば、挨拶もする。
ぼくが散歩に行くとき、前になり、あとになって、
ほんのしばらくの間だけ同行してくれることもある。
ある日、この猫が、突然、
「あんたの家に引っ越して来ることに決めました」
と宣言したのには、当惑した。ドアの前に座り込んで、動かない。
気の毒ではあるが、この子の飼い主は、世話をしないにしろ、Aさんだ。
ぼくが飼うのは、大いに問題がある。
仮に彼が本物のノラだったとしても、
ぼくは、今は、病気のせいで、ペットを飼うことができない。
そのうえ、この子は、遊んでいて興奮すると、
人の手に爪を立てるという悪癖がある。
これは致命的だ。ぼくにとって、感染症は、非常に危険だ。
ドブネズミ色のネコは、塀の上でじっと寝そべっている。
「屈託」という言葉に形と顔を与えると、この猫になる。
明らかに、彼はしあわせではない。
住む家がない。空腹が、夜の寒さが、彼を苦しめる。
そして、何にも増して、彼を愛してくれる人がいない。
飼い主に見捨てられた、このドブネズミ色の猫。
彼は、甘やかされて育ち、そのまま大人になった。
ある日、なにかの事情で状況が変わった結果、
冷たい世間に一人放り出された、そういう人間に似ている。
(後記: この猫は2013年の春に亡くなった。)
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