たどりつきたいカフェまでの誰も知らない路地裏を行くように会う
缶の底一つ残ったドロップは夕日の色だ あしたは晴れる
ねえきみの声がすきだよ雨ふりの夜はいっしょに眠っていいかな
嶋田さくらこ
作詞は ヴィニシウス・ジ・モライス
作曲は アントニオ・カルロス・ジョビン
題名の「思い出すのはもうやめよう」は山田リオの訳です
多くの人は この曲が 最初に書かれたボサノヴァだ と言います
歌手は ナラ・レアン
と ここまで書いて 当然出てくる「才能のことを書いてるお前」 つまりワタシの事だけど 「オマエごときが才能について書くのって どうなの?」 っていう疑問だけど マコトに ごもっともですが ここは 聞こえないふりして 続けます
で 話し言葉の事だけど たとえば 子供が生まれますよね で 新生児は退院して家に来る すると 家では 全員が なぜか 日本語を話している そしてこの子は 0歳からの数年間 家で 日本語を聞きながら育つ つまり 毎日毎日 耳から入って来るのは 日本語というわけ で 数年のうちに 子供は 当然のように 日本語を話しはじめる
もし 赤ん坊が住む家に フランス語が母国語の人と スペイン語が母国語の人がいれば 子供は当然 幼児のうちに フランス語とスペイン語を両方 話すようになる いわゆる バイリングアル というわけ
でね 音楽も 同じ事なの 親か 誰か赤ん坊と一緒に住んでる人が 例えば すごく松任谷由実が好きで 毎日毎日朝から晩まで松任谷由実の歌を聴いていたとすると この子の耳には ユーミンが毎日入って来る そして この子の母国語 じゃなくて 母音楽はユーミンになって それが刷り込まれたというわけ これが 場合によっては ずっと後になって もしかしたら 老人になってから 強烈なボディーブロウのように効いてくる ってこともある
つまり 人生の一番はじめに つまり 0歳から数年間のうちに 何を耳から入れてあげるかで その人の人生は劇的に変わって来るんじゃないか と ぼくは思っています でね これ 小学生になってからでは もう 手遅れなの 脳が柔らかいうちに じゃないと ダメなの
特にね 幼い時に 耳から入れてもらった音楽を とっくに すっかり 忘れていたとしても あれから ながいながい時間が流れて その子が大人になってから いろんなことがあって 病んだ時に あの時の 幼児の時の あの音楽が 遠い遠いところからやって来て この人を 救ってくれる そういうことも あるわけです
もちろん 「あの頃に耳に入れてもらった音楽がどんなものだったのか」 ってことも とても とても 大事
それと同時に 十回二十回程度じゃなく 「毎日 毎日 毎日 ずっと ずっと 繰り返し 耳から入れてあげる」ってのも すごく 大事 しかし 「座りなさい聞きなさい」はゼッタイにダメ 「なんとなく 知らないうちに いつも あの音楽が なんとなく聞こえていて 自然に 耳から入って来ていた」 ってのが一番いいのよ
「練習しなさい! 勉強しなさい!」というのも 最悪の結果を生むよね
でもさ 話しは「才能」から ずいぶんと遠くに来ちゃったね笑 つづく
山田リオ Copyright © 2022Rio Yamada
山田リオ
朝起きたら
300年前に生きた あの ドイツの作曲家の音楽を聴く
夕方 ワインを飲みながら
60年前に亡くなった あの 南米の音楽家の曲を聴く
音楽が作り出された その時に だれかが聴いた その音楽と
ながい永い時間がたった今 聴く その音楽は
同じなのか 違うのか
時を経て 人間が生み出したものは 変わるのか
いや そんなこと どうでもいい
今 ここに 生きていて この耳と この心で聴いている
このわたし 一人に それが どう響くのか
他人が呑んだ ワインの味なんか どうでもいい
わたしが呑んで そのときの わたしが
わたしの 鼻と 舌と 喉と 心とが感じること・・
いや もういいよ 黙って呑めよ
おまえなあ しゃべりながらじゃ 味なんか わからないぞ
| rio yamada photo |
赤ワイン
不要不急の 赤ワイン
「他人の顔色をうかがいすぎていないか」
それはともかく
元日は なにはともあれ 赤ワイン by 山田
因みに「他人の顔色・・」云々は お年玉で頂いた
養老先生の新刊「ヒトの壁」のキャッチコピー
元日の朝 ガラス越しの日差しが あたたかい
| rio yamada |
Feliz e maravilhoso ano novo para você!
波しろき海の極月来たりけり
これやこの冬三日月の鋭きひかり 鋭き(とき)
久保田万太郎(1889~1963)
今はもう会えない 友人の一人が 言っていた事がある
それは 「大きな幸運に恵まれた人は
一生の間に その幸運に釣り合うだけのprice
つまり 対価 を支払うことになる」という
つまり 幸運と 不運は 一生の中で帳尻が合う
というのだ
そう考えてみると なるほど と思うこともある
幸運ばかりの一生 それを願っては いけないのか?
おい R いたら返事してくれ
吉田健一の「汽車旅の酒」という随筆集の中の「東北本線」という一章に
列車で たまたま隣り合わせた 男との 会話が書かれていて
その男の 話の中で アフリカの ブッシュマンという民族は
土地を 所有する習慣が なかったため
後からやってきた 西洋人に 野生の獣のように 扱われた という
ブッシュマンは 土地を所有することがなく
自然を 荒らしたりすることもなく
自分たちが 自然の一部として 自然を手なずけ
飼い慣らしながら 共に生きているのだという
そういう話を 見ず知らずの男から 聞かされる
その中で 吉田健一は ブッシュマンが住んでいるという
カラハリ砂漠の 夕焼けのことを 書いていて
私は 見たこともない カラハリ砂漠の 夕焼けが
強く 印象に残っている
この本は いつも 目につきやすい場所に 置いてあって
気が向けば ちょっとだけ読んで また そこに戻しておく
つまり 「汽車旅の酒」 の定位置は 本棚ではない
気がつけば 電子書籍の書庫には ずいぶん 「本」が増えた
いくら書籍が増えても 電子書籍は 場所をとらない
海外で出版された本でも あっという間に送信されて 読むことができる
といっても それらの本には 実体がないから 「置き場所」もない
本の表紙に 指先で触れて 紙質を感じたり フォントを 味わったり
本を手に取り その 重みや 厚みを 感じることができない
たしかに 電子書籍に 書かれていることを 読むことはできる
しかし 本棚に並んだ お気に入りの本たちの 背表紙を
順繰りに 眼で愛撫していく そういう 楽しみは ない
読みかけのページに 栞を挟んでおくという よろこびもなく
心に残った部分や 自分が好きな 詩のページに 付箋を貼ることもない
だから 電子書庫をたまに開くとき かすかな虚しさを感じるのは
私だけだろうか 山田リオ