■2006/08/19 (土) |
山田リオ
渡邊の叔母のことを書いておこうと思う。
亡くなられてからずいぶん月日が流れたのだが、いまだにこの人は側にいるような気がするのだ。
叔母と言っても、たぶん遠縁の親戚で、詳しいことは、今となってはわからない。
私が小学校に入った頃には、もう七十歳にはなっておられたと思う。
おそらくご自宅での居心地がよくなかったのか、頻繁に訪れて、仏間に座っておられた。話し相手といえば、小学生の私しかいないのである。
したがって、わたしが学校から帰る時間を見計らって訪問されたように思われる。
いつでも、完全無欠の上品な和服、そして羽織、白足袋の足の裏が汚れていたことなど、ただの一度もなかった。
わたしがどういう種類の子供であったのかもよくわかる。つまり、足袋の足裏の汚れなどを気にして見るような子供だったのだろう。
そういう子供だったからこそ、渡邊の叔母はわたしを話し相手に選んだのではないか。
小学校低学年のころから年配の女性の好む「枯れた」話題を一時間でも二時間でも話し合って、かつ退屈することはなかったのだろう。
そればかりか、彼女が決して口にすることはなくとも、どんな思いを抱いてその老後を生きていたのか、わたしは子供ながら心にしみて感じていた。
だからこそ、今になっても、ときどき彼女のことを思い出すのだ。
あの、しゃりしゃりの薄紫の羽織や、灰色の絽の着物の手触りと共に。