山田リオ
自分は母子家庭に育ったので、幼い時から、祖父との交流が濃かった。
祖父は、一応音楽学校を卒業したが、作曲家として世に出ることはなかった。ただ、幾つかの校歌を残しただけだった。
彼はいわゆる趣味人で、江戸俳諧を愛した。
幼い頃から祖父に連れられて、美術館、寄席、能楽堂、骨董屋で過ごした経験は、今になってみれば貴重なもので、今の自分の、人間としての骨格になっている、と言える。
祖父は、説明や、批評家めいた無駄口を一切言わない男で、現物を示すだけで、黙して語らなかったことには、感謝している。
音大に入学して、レコード図書館に入り浸りになった。初めて聞く音楽は無数にあって、時間がいくらあっても足りなかった。ヴァイオリンを練習している暇など、なかった。
その中の、「高田三郎歌曲集」を聞いた時、体が震え、涙が流れた。その女性歌手の低く、太い、腹に響くような声、古風な日本語の響き、その裏にある悲しみに打たれた。
歌手の名は、「柳 兼子」。
調べると、この歌手は、当時、八十代で健在であり、国立音大で教えていて、リサイタルも、その年齢で行っているらしい。
歌手の年齢による衰えは激しく、50才まで演奏活動のできる歌手は稀だ。しかし、柳兼子先生は80を過ぎて、まだ第一線で歌っている。
今と変わらず、その頃もまた若く愚かだったので、すぐに国立の友人に頼んで、弟子入りを懇願した。その結果、有難いことにお目にかかり、弟子にして戴けることになった。
歌は、今でも大の苦手で、カラオケでも苦戦する。ただ、柳兼子の現物を知りたい、その思いがあった。
毎週火曜の午後、お宅に伺う。まず発声、発音を30分ほどレッスンして戴き、お茶になる。
お菓子も、毎回美味しくいただいた。
そして、四方山話。言ってみれば、「デート」だ。自分は18才。お相手は80代だ。
柳先生のご主人は、民芸運動で活躍された柳宋悦先生であることがわかった。
茶器などは、いずれも好ましい陶器ばかりで、嬉しかった。
柳先生の日本語の発音は、能楽の謡曲に影響を受けた、伝統的な美しい日本語であって、クラシックやポピュラーの歌手が日本の歌を歌う時にありがちな、外人が、初めて日本語を歌う時のような稚拙で、不自然なものが全くない。
なるほど、第一印象から惹かれた、その訳がわかった。
柳先生も又、すべてを行動で示す人で、その主張は、毎年行われる銀座、第一ホールのリサイタルで行われた。先生の声は圧倒的で、ホールに溢れ、毎回、それを聞くたびに、涙が流れた。
外国に移住し、お目にかかれない儘、亡くなられたが、その歌声は、今も耳に、心に、残って消えない。Copyright ©2000RioYamada