2012年4月28日土曜日




                                                                                           山田リオ

自分は母子家庭に育ったので、幼い時から、祖父との交流が濃かった。

祖父は、一応音楽学校を卒業したが、作曲家として世に出ることはなかった。ただ、幾つかの校歌を残しただけだった。
彼はいわゆる趣味人で、江戸俳諧を愛した。
幼い頃から祖父に連れられて、美術館、寄席、能楽堂、骨董屋で過ごした経験は、今になってみれば貴重なもので、今の自分の、人間としての骨格になっている、と言える。

祖父は、説明や、批評家めいた無駄口を一切言わない男で、現物を示すだけで、黙して語らなかったことには、感謝している。

音大に入学して、レコード図書館に入り浸りになった。初めて聞く音楽は無数にあって、時間がいくらあっても足りなかった。ヴァイオリンを練習している暇など、なかった。

その中の、「高田三郎歌曲集」を聞いた時、体が震え、涙が流れた。その女性歌手の低く、太い、腹に響くような声、古風な日本語の響き、その裏にある悲しみに打たれた。
歌手の名は、「柳 兼子」。
調べると、この歌手は、当時、八十代で健在であり、国立音大で教えていて、リサイタルも、その年齢で行っているらしい。
歌手の年齢による衰えは激しく、50才まで演奏活動のできる歌手は稀だ。しかし、柳兼子先生は80を過ぎて、まだ第一線で歌っている。

今と変わらず、その頃もまた若く愚かだったので、すぐに国立の友人に頼んで、弟子入りを懇願した。その結果、有難いことにお目にかかり、弟子にして戴けることになった。
歌は、今でも大の苦手で、カラオケでも苦戦する。ただ、柳兼子の現物を知りたい、その思いがあった。

毎週火曜の午後、お宅に伺う。まず発声、発音を30分ほどレッスンして戴き、お茶になる。
お菓子も、毎回美味しくいただいた。
そして、四方山話。言ってみれば、「デート」だ。自分は18才。お相手は80代だ。

柳先生のご主人は、民芸運動で活躍された柳宋悦先生であることがわかった。
茶器などは、いずれも好ましい陶器ばかりで、嬉しかった。

柳先生の日本語の発音は、能楽の謡曲に影響を受けた、伝統的な美しい日本語であって、クラシックやポピュラーの歌手が日本の歌を歌う時にありがちな、外人が、初めて日本語を歌う時のような稚拙で、不自然なものが全くない。
なるほど、第一印象から惹かれた、その訳がわかった。

柳先生も又、すべてを行動で示す人で、その主張は、毎年行われる銀座、第一ホールのリサイタルで行われた。先生の声は圧倒的で、ホールに溢れ、毎回、それを聞くたびに、涙が流れた。

外国に移住し、お目にかかれない儘、亡くなられたが、その歌声は、今も耳に、心に、残って消えない。Copyright ©2000RioYamada

2012年4月14日土曜日

ダニーボーイ(再録)



■2004/12/15 (水) ダニーボーイ DANNY BOY (アイルランド民謡、作者不詳)
訳:山田 りお



(ダニーボーイです。
『・・・いとしの汝を父君のかたみとし・・』云々という日本語訳は、あまりにも原詩とかけ離れた物なので、ここに英語の原文(伝承)と、できるだけ直訳したものを掲載します。)

ダニーボーイ(ロンドンデリーの唄)
アイルランドで継承されてきたこの唄は、父と、その四人の息子の物語です。

上の三人の息子は、みんな、すでに戦争で死んでしまいました。
一人残った末息子のダニーも今は16歳になり、戦争に行かなければならない年になりました。「笛の音」は、その知らせでした。

そして父は考えます。「もし万が一、ダニーが生きて帰ってくるとしても、自分はそれまで生きていないだろう。それに、全ての息子たちを失うかもしれない不安と悲しみで、自分は死んでしまうかもしれない。」父は、そう覚悟します。

この唄は、父の、末息子への別れの唄です。

Londonderry Air  

Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen, and down the mountain side
The summer's gone, and all the flowers are dying
'tis you, 'tis you must go and I must bide.

But come ye home when summer's in the meadow
Or when the valley's hushed and white with snow
'tis I'll be here in sunshine or in shadow
Oh Danny boy, oh Danny boy, I love you so.

And if you come when all the flowers are dying
And I am dead as dead I well may be
You'll come and find the place where I am lying
And kneel and say an Ave there for me.

And I shall hear tho' softly tread above me
And all my dreams will warm and sweeter be
If you'll not fail to tell me that you love me
I'll simply sleep in peace until you come to me.

ダニーボーイ (訳:山田リオ)

おお、ダニー、笛の音は谷から谷へ
山肌を渡っておまえを呼ぶ
夏は去り、すべての花が死んでゆくとき
おまえは行かねばならず、わたしは一人残される

でも、帰っておいで、草地に夏が来るころか
谷間が静まりかえって、雪で白くなるころ
日差しの中で、影の中で、わたしは待っているから
おお、ダニー、おまえを愛しているよ

もしおまえが、すべての花が死ぬ頃に帰ってくるなら
そしてわたしが、もう死んでしまっていたとしても
おまえは、わたしが眠る場所を見つけるだろう
そしてひざまずき、祈りの言葉を言ってくれる

わたしは、わたしの上に、おまえのやわらかな足音を聞くだろう
そしてわたしの見るすべての夢はあたたかく、甘い
もしも、おまえが「愛している」と言ってくれるなら
わたしはただ安らかに、お前が来るまで待っているよ

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2012年4月9日月曜日

ライフログ


ライフログが話題になっているそうだ。

携帯電話やタブレットを使って、個人の生活や行動を、長期にわたって、詳細に記録する、それがライフログだそうだ。

しかし、取捨選択無しで、すべての行動が残ってしまうのは、困るという人も多いと思う。
職業上の機密ということもある。
どこに行って何をした、すべが記録されてしまう。
競馬場へ行った。でも負けた額は記録したくない、思い出したくない、ということもあるだろう。
レストランで食事、でも誰と食事したかは明らかにしたくない、ということもある。
メールなどの内容も、すべて記録されてしまうのか。
収入や出費、電話での会話は?考えるときりがない。

都合の悪いところは、あえて記載しないのが日記の良さだったのではないかと思うが、
ライフログの世界では、違うらしい。
ライフログは、主観を交えないものなのか。

それを突き詰めていくと、一人の人間の「生涯ドキュメンタリー映画」のようなものになってしまうのではないか。
それは、1985年の映画「ブラジル」に描かれた未来社会、コンピューターによってすべての人間が監視される社会を思わせる。あの映画は、ある意味、衝撃的だった。
でもたしかに、あの映画の世界は、わたしたちの現代の生活に重なりつつある。
テリー・ギリアムは、先見の明があったということか。

ライフログで思うのは、英国のローレンス・スターン作、
"The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman"
「紳士トリストラム・シャンディーの生活と意見」という小説だ。

これは夏目漱石の「我輩は猫である」に影響を与えたとされる小説で、1700年代に書かれた 。
ほぼモーツアルトが生きた時代とおなじだ。
当然のことながら、おそろしく長い。全九巻。読破するのは大変だ。
モーツアルトの時代にも、ライフログをやっていた人がいたわけだ。

ところで、1889年に書かれた
"Three Men in a Boat(To Say Nothing of the Dog)"
「ボート中の三人男(犬については、あえて言わない)」
という、こちらも英国の小説だが、このほうが登場人物も、雰囲気も「猫」に近いと思われる。
犬が登場している点も、興味深い。
漱石は、この小説を読んだはずだ。

ちなみに「猫」のほうは1905年に発表された。
「ボートの中の」はずいぶん昔に読んだが、「猫」には遠く及ばないと思った。
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2012年4月7日土曜日

遠方より来たる



クイーン・メリー号です。
1934年に作られた英国の豪華客船。
かのウインザー公爵夫妻も御用達。

遠くの友人夫妻がお見舞いに来てくれて、
今日はこのクイーン・メリー見物です。
普段なら、まずやらない観光です。
現在は港に停泊したまま、
ホテルとして利用されています。
だれでも泊まることができ、
たくさんあるレストランも、宿泊も、
値段は普通です。

船内は1930年代そのままに保存され、
レストランも客室も信じられない豪華さ。

現在は殆ど手に入らない、
希少な鳥目の楓材が、
ふんだんに使われています。
ほかにも、マホガニー材、
チーク材の廊下の質感をご覧ください。

手すりや柱など、眼に触れない場所にも
当時の彫金や打ち出しの技術を
そこらじゅうで見ることができます。

船内は、ほとんどすべて公開されています。

お見舞いに来てくれた友人夫妻は現在南フランスに住んでいて、
オーベルジュ(泊まれるレストラン)を経営したり、現在、ワインの本を書いていたり、ほかにもいろいろと忙しいのに、わざわざ、ぼくと飲んだり食べたり遊んだりするためだけにカリフォル二アまで来て、また数日で帰るので、まったく申し訳ないことですが、こっちは楽しいのです。

奥さんはイギリスの人で、人生のおおきな部分を中国、台湾、インドシナに住んで働いていたので、と言いいますか、彼女は、つまり「冒険家」なのです。
でも、戦場カメラマンじゃないから、それを仕事にしてるわけじゃないし、本もまだ書いていない。もちろん、写真集も出していません。

ワインを飲みながら、カンボジアの恐ろしく辛い鶏の料理をたべながら、動乱のプノンペンで危ない橋を渡った話をしてくれるときも、本人は涼しい顔です。

それから、彼女は、ネイティヴなみのマンダリン(北京官語)を話すので、いっしょに中華料理を食べに行くと、中国の人たちが驚く顔を見られるのも、毎回楽しみです。

今回、二人と食べた料理は、今日までで、台湾、ペルシャ(イラン)、そしカンボジアなどです。
カンボジア料理というのは生まれて始めて食べましたが、驚きの味でした。

ペルシャ料理は、シルクロードのフランス料理と言う感じの上品な味わいです。
中でも好きなのは、鶏肉を、胡桃とザクロの実で煮込んだ料理。メソポタミアの味(笑)。
世界には、いろいろな味や料理がありますが、そういった分類には入れられない、
と言うか、ユニークで、魅力的な味です。

この二人の友人のことは、またいずれ、ゆっくり書きたいと思っています。
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